Sparrow!!--#5:Flap(12)

 先程とは打って変わった柔らかな風が、半分だけ開けた窓から入り込んできた。
 白いベッドの上に横たわる雛の髪を、その風がふわりと軽く踊らせる。翔と陶子に連れられてこの医務室まで移動してきたのは、二十分ばかり前のこと。窓際のシンクで今までの人生になかったほど口内を洗い、講習はいいから休んでいろと、陶子によってベッドに押し付けられた。
 殺風景で簡素なこの部屋。サポーターは全て外しているものの、ライダースーツはあまり横になるのには適していないらしい。身体は固定されたように動かしづらく、独特な薬品じみた空気に、吐瀉物の臭いがまだうっすらと混ざっている気がして不快だった。が、この状態ではどうにもできない。シーツを目深にかぶり、胎児のような体勢のまま気分が落ち着くのを待って、雛は背後にいる彼へと囁いた。
「ごめん、翔」
「いや、良いよ。俺のことは」
 ベッドサイドに置かれていたパイプ椅子を軋ませ、翔がこちらを向いたのが分かった。これまでどちらともなく黙っていたからか、距離の近さにどきりとする。また沈黙になってしまうのが怖くて――それに、肥大した不安を吐き出さずにおれず、雛はぎこちなくも続く言葉を捻りだした。
「他の子、上手かったね」
「うん」
「……がっかりした?」
「――何で?」
「だって、私、下手だったし、は、吐いちゃって」
 言葉にすると、あの時の絶望的な感覚が込み上げてきた。あんなことになるなんて思いも寄らなかった、死んでしまいたいほどの失態。
「気持ち悪かったよね。嫌になったでしょ……」
「そんなことない。よくあることだよ。それより、事故にならなくて良かった」
 翔はそこで言葉を切り、やっと安心できたというふうに息をついた。
「最初からちゃんと飛べるわけない。審査の時に何ともなかった方が信じられないくらいだし、気にしなくて良い」
 雛は弱々しく頭を振る。
「しちゃうよ。……気にしちゃう。翔はそう言うけど、実際凄く差、あったし」
「そうかもしれないけど」
「……私がチャンピオンになるなんて、言って良いのかな。皆に追いつける気がしない。勝ってこないよ、私なんかに」
「まだ初日なのに、そんなこと言っちゃ駄目だ。差はこれから縮まる」
 本当だろうか。彼の言も信じられないほど、先ほどの出来事は雛に大きなダメージを与えた。元々あった不安が破裂し、決壊したダムの如く胸の内をどろどろに汚す。できもしない背伸びをしていたのだ。気持ちだけは負けないと思っていたのに、それすらも自分自身の未熟さにへし折られてしまった。
「確かに、今日はそうだったかもしれない。でも、まだ時間はある。試合になったら俺がフォローする。俺が――」
 けれどそこまで言って、翔は言葉の先っぽを見失ったかのように黙り込んだ。何かを迷っているような沈黙。彼もまた、言い切れないほどに不安だということなのだろうか。そんな予感が胸を掠め、雛はシーツを握ったまま振り向けずにいる。彼が今どんな顔をして、何故黙ってしまったのか、知りたいのに知りたくない。
「翔は、」
 重く続いていた沈黙に耐えかね、雛は口を開いた。
「翔は何でチャンピオンになりたいの? 前、約束したって言ってたよね。誰との、約束なの?」
「よく覚えてるな」
 少し緩んだような彼の口調に、雛は思わず飛び起きた。驚いたように目を見開く彼と、とても久しぶりに視線が合った気がする。
「と…………そ、そうかな」
 当然だよ、と言いかけて堪えた。面と向かっては決して言えないが、彼がこちらに話してくれたことはどんな些細なことだって覚えている。それにこれは、今までずっと頭の隅にありながら、聞くタイミングをずっと逸していた事だった。
「そういえば、聞いてなかったから……かなり今更だけど」
 雛がチャンピオンになりたいと思ったのは、翔がそう言っていたからである。その彼の瞳に憧れて、雛は殆ど衝動で――しかし、不思議なくらい確信を持ちながら――これを自分の生きる道だと決め込んだ。生まれたてのヒヨコさながらに、自分でも驚くほど無垢で一直線に。
 しかし、彼が発したのは予想外のことだった。
「好きな操縦士がいたんだ」
「えっ!」
 変な声が出た。好きな、というのはどういう意味なのだろう。選手としてか、それとも他の感情なのか。身を乗り出す勢いで聞きだしたかったが、雛は自分をぐっと抑えた。
「今はもう引退しちゃったけど」
「そ、そうなんだ。も、もしかして、女の人、とか?」
「男。俺より二十くらい上だよ」
 こちらの気持ちを知ってか知らずか、彼はけろりとして答えた。聞くなり雛も脱力する。そうだ。今ですら操縦士には男性が多いのだから、ほぼ自動的に女性だと思うのもどうかしている。安堵しつつ、雛は気を取り直して顔を上げた。
「お兄ちゃんみたいな感じ?」
「そうだな。昔――それこそ幼稚園とか、そのくらい小さい時から仲良くして貰ってて、凄く好きで。試合もずっと見てたんだ。かっこよかった」
 言いながら、翔の目は少しいつもと違う色を帯びた。あまり表情を変えない彼が、それこそ幼い子供のように瞳を輝かせている。
「俺が整備士になったら、一緒に組んでチャンピオンになろうって。今思ったら、ただ俺に合わせてくれてただけかもしれないけど。でも、その人がチャンピオンを目指してたのは本当。ただ結局、なれないまま引退して」
 きらきらしていた目を、彼はすっと伏せた。
「何で引退しちゃったの? 怪我とか?」
「いや、単に年齢的なもの」
「年齢……?」
 雛にはピンと来なかった。しかし、翔は言葉を噛みしめ続ける。
「操縦士は、三十歳くらいで衰えがくるんだ。勝ちたくても、急に勝てなくなる。最初は本戦にいたのに、負けがかさんだ所為で準戦に降格になって、それでも勝てなくなった。引退を決めた年の、最後の試合でも」
 今度は、こちらの表情が凍った。想像もできない。自分ですら、他の候補生と技術に差があるだけでこれほど落胆しているのに、経験のある選手が負け続けるという気持ちは――その悔しさは、惨めさは、一体どれ程のものなのだろう。
「あ、だ、だから。俺だけでもなろうって思ったんだ。大袈裟に言ってたけど、ただそれだけ。そんなに深刻な話じゃない。よくある話なんだ」
 雛の様子に気付いたのか、翔は焦ったように言い直した。けれど、そのようには全く思えない。
「深刻、だよ。……だってずっと一生懸命やってたんだよね、その人。よくある話なんかじゃないよ。翔も、その人が頑張ってたのを知ってるから、今チャンピオンになりたいんでしょ。大切な話だよ」
 そこまで言って、雛は思った。翔は、その人の悔しさをよく知っている。惨めな姿だって何度も見て来たはずだ。大切な人が挫折して衰えていく姿を見るのは、どれだけ苦しいことだっただろう。これがもし自分がならば、きっとFMマッチの選手になろうなどとは思わない。嫌いになっていたかもしれない。しかし翔は、選手を目指して整備士免許を取り、一人でも約束を叶えようとしているのだ。
 これほどまでに一途で優しい人物を、雛は他に知らない。そしてその彼が、一緒に夢を追うパートナーとして自分を選んだ。
 翔は強い。心細い時はいつだって傍にいてくれていたし、こちらの意図を正しく組んでくれた。彼といれば、自分が在るべき場所へ行ける気がする。だが、それだけでは決して肩を並べられない。折角両親を説得してここまで来たというのに、こんなことで弱音を吐けば全てが水の泡だ。
 自分が他の候補生と比べて劣っていることなど、最初からわかっていたのだ。一度失敗したから、恥をかいたからというだけで、落ち込んでいて良いのだろうか。それこそ彼の前では、目の前で嘔吐することよりも恥ずかしいことではないのか。
「……翔、私――」
 もう一度、手元のシーツを強く握りしめる。が、言おうとしたことが上手く言葉にならない内に、絶妙なタイミングでドアが軽くノックされた。