Sparrow!!--#5:Flap(11)

「ほら、ざわざわしない」
 自らもそちらを確認し、陶子が生徒達を制した。それから雛の表情が固まっていることに気付き、横から覗きこむ。
「気にしなくて良いよ。ただの息抜きって言ってたから」
「い、息抜き……」
 気にならないわけがない。現役時代を知らない上、講師という立場の陶子とは訳が違う。彼女は、雛にとって唯一無二の選手だ。滑空を見たのも名前を覚えたのも、彼女が初めてだったのだから。
 雛はもう一度顔を上げた。声を上げれば聞こえそうなほどの距離に、他の誰でもない望月瑠夏がいる。あの切れ長の目で、じっとこちらを見つめているのだ。
「雛。桜木さんの言う通りだ。リラックスした方が良い」
 翔が心配そうに搭乗台に近づいてきた。だが、そう言う彼の表情も少し強張っている。
「ガチガチじゃん。落っこちるんじゃない? 望月選手の前でさ――ふふ、かっこ悪」
 緊張で自失しかけている雛を一瞥し、陸央が鼻で笑った。
「霧島!」
「何、またやる気? 橘川君に呼び捨てにされる義理なんて無いんだけど」
 翔は陸央を思い切りねめつけていたが、やがてお前とは話もできないと言うようにこちらに向き直った。
「……とにかく、望月さんのことは意識しないで」
「うぅ、うん」
 動揺を飲み込んで、雛はぐっとヘルメットを取り付ける。瑠夏の方を見ないように努力し、左のグリップをゆっくりと握り締めた。スパローは先ほどと同じようにふんわりと浮かび上がり、瞬きをする間にビルの三階ほどの高さまで上り詰めていく。耳元でヘルメットの内側が震え、甘い声が聞こえてきた。
『宝生さん、聞こえる?』
 陶子だ。審査の時に翔がしたように、インカムでこちらに話しかけてきているのだ。
「――はい」
『私が指示を出すから安心して。大丈夫だよ、そのままペダルを踏んでみようか。ゆっくりね』
「ゆっくり……」
 震える声で陶子の言葉を復唱し、雛はそっとつま先を降ろす。すると、すっと風が裂かれていく感覚がヘルメット越しでも確かにわかった。空が、雲が、ゆっくりと後ろへと流れていく。
 スパローが前に進んでいる。自動操縦ではなく、初めから自分でFMを操縦しているのだ。
 しかし、感動よりも先に焦燥が来た。視線を何処へやればいいのかわからない。頭上と足元にはそれぞれ全く別の圧力がかかり、地上との距離に目が眩む。この機体の良く末が、全て自分の意のままであること。自由である恐ろしさを、雛は身を掠めて行く風の隙間に、またグラビティ・ドライブの微かな音の切れ目の中に垣間見た。
 自分だけの力で飛ぶということの、なんとも不安定で心細いこと。機体が勝手に動く怖さとは、また違ったものである。試運転審査で飛んだ時とは、また違うベクトルの心細さだ。
 風と気持ちの揺れがそのまま機体に移り、軌道はぐにゃぐにゃと曲がり始めた。あまりの不安に、雛はたまらず小さく口を開く。
「あの、このままで……」
『良いよ、大丈夫。そのままハンドルを切って旋回しよう。スピードはそのまま。そのままね』
「は、はい」
 陶子の声に頷き、雛は言われたとおりにハンドルをじりじりと切っていった。自分が臆しているせいか、まるでスパローまで怯えているかのようだ。
 気にするなと言われていたのに、足元のスタンド席にいる望月瑠夏がちらりと目に入る。上下の位置は逆になったが、距離は先ほどよりも短くなっていた。彼女はスタンドのフェンスに姿勢を委ね、無表情のままでこちらを見上げている。白いカッターシャツというフォーマルな服装だが、きりりとした目や中性的なウルフカットは雛の記憶のままそこにあった。
――目が。
 目が合った。彼女がこちらを、自分が飛んでいるところを見ている。
 雛の思考が真っ白になったのと、不意に一陣の風が吹いたのは殆ど同時だった。予期せぬ衝撃に機体前方がぶわんと強く煽られ、スパローは瞬間的にバランス感覚を失くす。たったそれだけのことなのに、何が起きたのかわからない。指先からぞろりと血の気が引くのを、動転しきった雛は世界が終わる合図のように感じた。
「――ぁあッ!!」
『落ち着いて! 横風には、フロートを上げて対応するの。少し力がいるけど、追い風になるように機体の向きを変えて』
 陶子の声が聞こえた。しかし、それを冷静に実行できる程の余裕は無い。試用機が故障を来した、以前の記憶が蘇ってきた。天も地もわからず、初めて自分自身の死を強く意識したあの時。
「う、……あっ、や、ッ、ぁ、」
 どうすればフロートでどうすればランなのか、それさえも空のどこかに飛ばされた。とにかく機体を止めたくて、足を踏みしめ手を強く握る。しかしスパローは、見境を失くした馬のように暴れまわるだけだった。突っ込む勢いで客席に近づき、雛は思わず目を瞑ってハンドルを捻る。間一髪で事故は免れたが、今度はどこまでも高くに上って行ってしまう。
 体中にある全てのものが逆流した。腹に淀んだ感覚が溜まる。死をも掠める頭をシェイクさせ、混乱しきった雛の身体は、スパローに滅茶苦茶な軌道を描かせた。瑠夏が見ている前で、こんな醜態をさらしていること。翔から与えられたはずの勇気が、こんな簡単なことで恐怖と劣等感に塗り替わっていくことが、泣けるほど情けなく悔しい。
 思えば、ここでFMが飛ぶ原理さえも知らなかったのは自分ただ一人だ。他の候補生達は、まるで昔から乗っているかのように自由に飛び回っていたというのに。自分だけがこうやって風に流され、見えない壁にぶち当たる。トレーニング経験の有無など関係無いと翔や陶子は言うが、こんなにも差が歴然としているのをどうして気にせずにいられるだろう。春からは皆ライバルで、倒すべき相手になるのだ。自分は彼らに――否、全ての選手に勝てなければ、チャンピオンになどなれないというのに。
『宝生さん!! ――ちょっと、自動操縦に切り替えて。早く!』
 陶子が職員に指示すを出す声が遠い。しかしその一拍後、スパローはふっと速度を弱め、ふわりと下降した。オペレートボードから操作介入が施されたのだ。機体は本来の落ち着きを取り戻し、フィィンと澄んだ音を立てて地面に敷かれたクッションの上に不時着した。
「雛!!」
 雛の体が機体から降りたと同時に、翔が声を上げ駆けつけてきた。傍らに膝を落としてヘルメットを取り去り、初めて話した時のように背中に触れる。
「大丈夫か!?」
「か、……――ッ、ぅ」
 体中に流れるものの全てが逆流する。腹の中でとぐろを巻いていた不快感が、息もつけぬ速さで胸、そして喉へと込み上げてきた。反射的に口元に手をやる。駄目だ。嫌だ。今、翔の、瑠夏の、こんな大勢の前でこんなことになっては、自分は、それこそ死んでしまうかもしれない。だから。
「んぅ、」
 しかし、その濁流は無常にも堰を切った。抑え切れずに咳き込めば、今朝食べたパンや紅茶の味が蘇る。身が縮むような強烈な酸が口の中に広がり、手のひらの中に、クッションの上に、口から溢れだしたそれらが零れ落ちた。
 異臭。背中に置かれた翔の手が、びくりと動く。声も出せず、見上げることも出来ない。雛は俯き、ただただ涙だけは必死で堪えた。