Sparrow!!--#5:Flap(10)

 瑠夏はふと、グラウンドから目を離して自分の手を見た。腕、胸、胴、脚。今はこうして無意識下で体が繋がっていることを認識できるが、FMで飛ぶ時は身体全体――髪の一本一本、細胞の一つ一つに至るまで――が“ここに在る”ことを強く意識していなければ、自分を保ったままではいられない。でなければ、風と空圧の彼方へ意思ごと吹き飛ばされてしまうだろう。
 これは操縦士全員が身体で理解していることだ。羽ばたかなければ飛べないことを、鳥達が生まれながらに知っているように。しかし、それでも、
 羽ばたいても羽ばたいても飛べなくなる時が、いつか自分にもやってくるのだ。
 ぞっとした。事故の恐怖とは違う何かが、感覚の脆い背中を駆ける。
「――よっしゃ。俺ももう持ち場に戻るわ」
 不意に国枝が立ち上がった。瑠夏もはっと顔を上げる。その拍子に、じわじわと自分を支配しかけていたものが、断ち切られるように引っ込んでいった。
「ま、好きなだけゆっくりしてくれ。来週の今頃はリラックスして挑めるようにな」
「……はい」
 言いながらスタンドを後にする彼に向かって頷いた。そうだ。自分は今日ここに、初心を取り戻すためにやって来たのだ。負けることも衰えることも恐れず、ただ誰よりも強く飛ぶことだけを考えていた頃の自分を。
 国枝を見送り、気を取り直して下を見る。そこではまだ敗北も劣化も知らない操縦士たちが、その初々しい翼を広げていた。


 FMには、フロートエンジンとランニングエンジンという二種類の動力がある。その名の通り、フロートは縦方向の浮遊を、ランニングは横方向の加速度を司るものだ。そして、この二つを合わせたものがグラビティ・ドライブと呼ばれているものである。
 操縦士が機体上でこの二つを調節することは勿論、試運転審査の時に国枝が行ったように、整備士が遠隔操作することも可能だ。この操作の割り振りは選手ごとに異なるようだが、操縦士にはハンドルのコントロールも必要になってくる。速度のある試合中では操作に手が回らなくなることが多々あるため、動力操作の補助を整備士が受け持つようになったのだ。
「――じゃあ最初はフロートから。まずは今言った手順で、機体を起動させてみて」
 全員の足並みが揃うのを待って、陶子は再び声を上げた。
 講習は、FM自体の構造の説明から実際に飛ぶ段階へと至っている。傍で翔が見守る中、雛は初めて自分の手でスパローを起動させた。右ハンドル脇にある小さなレバーを下げ、中央のスイッチを深く押し込む。手元の各種メーターに光が灯り、機体が静かに震えだした。まるで生き物だ。跨ってベルトを締め、ハンドルを握れば、その胎動が体の芯にまで伝わってくる。
 金属で出来ているはずなのに、血が廻り、鼓動を打ち、息をしているように錯覚した。スパローは、ちゃんと生きているのだ。
 スーツと同じグレーのフルフェイスヘルメットを付け、丁度右のこめかみ部分にある小さなボタンを押した。審査の時と同じく、黒一色だったアイシールドに青白い光が灯り、すっと透明に変化する。
「みんな準備は良い? フロートは左のハンドルグリップで調節するって、さっき話したね。手首を使って、ゆっくり自分側に回して」
「――おおっ!」
 陶子が指示するのを聞くや否や、雛の背後で声が上がった。振り返れば、別の候補生が機体ごと五〇センチほど浮かび上がっている。それを見た他の候補生達も先を争うように宙に浮いていきった。雛もハンドルを握りしめ、翔に目配せする。
「このまま?」
「そう」
 彼が頷くのを見、思い切ってハンドルをじんわりと手前に捻っていく。すると、不意に重力が無くなる感覚がした。
「わぁ……!」
 気泡がコップの底を離れるような、あまりにも自然な上昇。耳を澄ませば、フィン――というグラビティ・ドライブが回転する音が聞こえた。機体を支えていたはずのつま先は地面から離れ、地面から数十センチ離れた場所でふわふわと浮遊している。
「そのまま深く握って、少しずつ高度を上げて。落ちないようにね」
 陶子に言われるままにハンドルのグリップ部分を深く握ると、スパローは確かにそれに応えた。徐々に距離が開いていく翔を見下ろすと、彼も眩しそうに目を細めてこちらを見上げている。透明感のある秋空に十余りのFMが浮かび、風がその隙間を縫ってするすると通り抜けていく。遊覧船のような穏やかな揺れは、翔の操縦で初めてスパローに乗った時と全く同じだった。
 あの時の感覚がデジャブする。決断したあの時の空気の匂いは、雛の身体に今でも深く染み込んでいた。きっとこれからも、こうやってフロートする度に思うだろう――彼の体温と夕日の色が、自分の生き方さえも変える大きなものへとなっていった事を。
 フロートを終えて地面に戻っても、陶子による授業は休む暇なく続いた。雛以外の候補生にはもう既知という者もいたが、先ほどの喝が効いているのか、この作業を軽んじている空気など微塵も無い。
「――はい、それじゃあ次からはランを入れていくよ。接触の恐れもあるから一人ずつね。登録番号順に名前を呼ぶから、ある程度までフロートしてからペダルを少しずつ踏み込んで。絶対に急に踏み込んじゃ駄目だからね」
 ハンドルグリップを握って駆動させるフロートエンジンとは違い、ランニングエンジンは右の足元に取り付けられたペダルを踏み込むことで調節できる。
「なんだかピアノみたい」
 雛の口から久しぶりにその単語が飛び出した。手足を同時に使って動かす動作が、最早懐かしいその動作とよく似ていたのだ。因みに、相手を撃って点数を入れる赤い光線――レールは、右のハンドルに取り付けられたトリガーを引いて機体頭部の光源から射出する。
 候補生達は一人ずつ名前を呼ばれ、次々と空に浮かんでは緩い滑空を見せて行った。皆元からのトレーニングを行っているのか、初めてに思えぬほど堂々と姿勢が据わっている。空中で宙返りを試みたり、ジグザグの軌道を描く者までいる。先ほど雛を馬鹿にしていた陸央だって、空中に優雅な弧を描いて地上に帰ってきた。
 皆が自分と同じ立場であることを忘れ、凄い、という感嘆を零しかけては飲み込む。言ってしまったら、自ら越えがたい壁を作ってしまうような気がしたからだ。その内に自分以外の候補生は全員出番を終っており、生徒の滑空を順に見ていた陶子がこちらを振り向いた。
「――次、最後ね。宝生さん」
「は、はい」
 上ずった声で返事をし、雛はスパローを引いてぎくしゃくと搭乗台に上がった。一人の職員が整備士用のコンピューター――オペレートボードと呼ばれている――から伸びるケーブルを機体のスロットに差し込み、短いプログラミングを経て両者の同期を完了させた。雛がスパローに跨りグラビティ・ドライブを起動させた丁度その時、息を吹き返したように始まったスパローの振動に紛れ、直前に飛んでいた男子候補生が周の者に囁く声が聞こえた。
「――なぁ、俺今飛んでて気づいたんだけどさ……あそこにいる人って、もしかして」
「私も思った。桜木さんと仲良いって聞いたことあるし、見に来てるのかも」
「え……? でも、来週星望杯なのにこんな所に来るかな、望月選手」
 その名前を聞いて、ヘルメットを被りかけていた雛も顔を上げた。他の候補生がざわめく中、丁度プラットフォームの真上にあたるスタンド席で、こちらの様子を眺める一人の人物がいる。白いカッターシャツを着込んでいるため、一目見ただけでは職員に見えないことも無い。けれど雛は――もとい、ここにいる誰もがその人物に見覚えがあった。