Sparrow!!--#5:Flap(09)

「お、男の子?」
「はっ!?」
 彼女――もとい彼は驚きと呆れの入り混じった声で吹き出し、そして調子を取り戻すように軽く咳払いをする。
「……わかった。汐野さんが変なあだ名で呼ぶから、女だって間違えたんでしょ」
 いや、汐野が名前を呼ぶ前からそう思っていただなんて言えない。それに性別を間違えるだけならまだしも、翔と知り合いなのかと疑いもした。何という間抜けな勘間違いなのだろう。馬鹿にされたというのに、驚愕と羞恥で言うべき言葉も吹っ飛んだ。けれど雛が黙っているのを肯定と受け取ったのか、彼は続ける。
「あの人、あの呼び方嫌いだって言ってるのにやめないんだよ。ほんっと迷惑。……僕は霧島陸央(きりしま りくお)。間違えないでよね、宝生雛さん。それに――橘川翔君」
「何で」
 彼を警戒していた翔が狼狽えた。知ってるんだと続ける前に、陸央が再び盛大なため息をつく。
「もう既に有名だよ。どっちも十六で、しかも初心者同士で組むなんて前代未聞だし。話題にならない方がおかしいんじゃない。ま、話題だけで期待はされてないけどね。春からはどうせ悲惨だろうし、今の内に夢見といたら良いんじゃない」
「お前だって、まだ候補生だろ」
 さすがにむっとしたのか、珍しく雛より先に翔が憤慨をあらわにした。しかし陸央も怯まない。翔にねめつけられても、何の悪びれも無く続ける。
「でも、僕はずっと前からシミュレーションをしてきた。確かに実際の滑空は今日が初日だけど、感覚的には宝生さんなんかよりも鍛えてあるんだ。ずっと上手く乗れるよ。一緒にしないでくれる?」
「そんなの関係無い。どれだけトレーニングしたって、実際に乗れば必ず違いはある。お前が思ってるほど、雛との違いは無いはずだ」
「じゃあ、君はどうなのさ。最年少で免許取ったって言っても初心者は初心者じゃん。さっきだってずっと二人でイチャイチャしてたし、まだ遊びだって思ってるでしょ。考えが甘いんじゃない」
 やれやれとでもいうような陸央のジェスチャーに、雛は唇を噛んだ。確かに自分は少し舞い上がっていたかもしれないが、遊びだとは断じて思っていない。それに、何故翔がそれほどまでに言われなければならないのか。
「ま、僕は君らとは全然違うけど。さっさと本戦に移って――うわぁっ!!」
 握りしめられた雛の手に力が込められたのと、彼がそう叫んだのは同時だった。
 いつの間に近づいていたのだろう。先ほどまで搭乗台にいた陶子が、陸央を後ろから雁字搦めに捕まえていた。肩の上にのしかかるようにして体をくっつけ、誘うような甘い声で耳元に囁く。
「本戦に移って? で、何?」
「……チャンピオンに、なります」
「へぇ。基礎講習中に私語して、チャンピオンになれると思ってんだ。君こそ、考えが甘いんじゃない」
「――ッ、」
 ごもっともなことを言われ、陸央は言葉を失くした。陶子は彼の背を押すようにして体を離し、困惑してやりとりを見つめる他の候補生達を見回す。
「皆も覚えとくように。基礎を疎かにする奴は大成しない。他人を馬鹿にする奴もね。いくら知識やトレーニング経験があっても、そんなのは予習に過ぎないんだから。ここにいる以上、皆同じラインに立つ新人だってことは変わらない。本戦行く前に事故って選手生命終わらせたくなきゃ、せめて私の話はしっかり聞いておくこと」
 皆が――陸央でさえも、黙ってその言葉を飲み込んだ。名実ともにある現役時代を知っているからこその沈黙。すっかり凪いでしまった我が生徒達を順に眺め、陶子は最後に雛を見た。
「あなたが宝生さんね、国枝主任から話は聞いてるよ。知ってからの時間の長さなんて関係ない。大丈夫。私がしっかり教えてあげるから、心配しないで」
 大きな目に真っ直ぐ見つめられ、雛は緊張に身を固くした。けれど自分に足りないものの全てを、彼女が与えてくれるという予感がしんしんと胸を打つ。それは、水源を探し当てる木の根のように確かなものだった。
 雛その瞳を見つめ返し、ゆっくりと頷いた。
「――はい」
「よし」
 返事を聞いて、陶子は満足げな笑みを作る。
「じゃあ、早速FMの説明に入るよ。仕組みは規定で統一されているから、試用機でも専用機でも違いは無い。無いんだけど、整備士によっては――」
 ステップを踏むかのような足取りで搭乗台に戻る陶子の声を聞きながら、雛は翔の方にそっと目をやる。彼も雛を見ており、その目もまた、大丈夫と雛に言い聞かせていた。雛はもう一度頷いて前を見る。不安などない。それらはたった今、全て勇気に据え代ったのだ。
 しかしその一方で――陸央が小さく舌を打っていたのに、雛は気付くことができなかった。


「陶子、講師になったんですね」
 てきぱきと指揮をとる馴染んだ人物をスタンドから眺め、瑠夏はぽつりと口を開いた。隣で煙草をくわえていた国枝も見下ろす。グラウンドではFM本体の説明から、乗る際の初歩的な扱いへと移っていった。機体の扱いにまだ不慣れな候補生達が、おぼつかない動作で陶子の指示に従っている。
「そうだな。公表してないから知ってる奴は少ないけど、指導者になりたいって自分から志願してきたんだ。お前といくつ違いだっけ」
「向こうが三つ上ですね。……でも、同期ですよ」
 自分は十六歳、桜木陶子は十九歳でFMの選手になった。今日の様子を見ていてもしみじみと思い出す。周りに馴染めず棘だらけだった自分に、最初に声を掛けて来たのが陶子だった。一番話をしたのも、試合をしたのも彼女だし、初めて負けたくないと思った相手も彼女だ。しかしここ数年は自分が足踏みをしていた所為か、それもまだついこの前までの事のように思える。気付けばあれからもう九年の月日が経っていて、彼女は選手ではなくなってしまった。
――私、今年で選手辞めるんだ。
 去年の夏大会の前、彼女はわざわざこちらを訪ねてきてそう言った。何で。思わずそう聞き返した時の、彼女の表情は今でも忘れられないでいる。出会った時と何ら変わらない、明るく魅力的な空気を纏ったまま、しかし少し硬く寂しげな笑みを浮かべて。
――今終わった方が、良いと思ったから。
 二十代後半に差し掛かると、操縦士は目に見えて能力が劣化する。三十を越えたら急に勝てなくなるという話はよく言われていることだし、実際にそうやって辞めて行く選手を何人も見送ってきた。スタジアムの領空に名を轟かせた名選手でも、こればかりは避けられない。どれだけ高く速く飛べたとしても、身体的な衰えには生きている以上逆らえないのである。
 最初は納得がいかなかったし、憤りもした。自分は飛べないことに苦しんでいるのに、何故彼女はこんなにもあっさりと身を引くのか――技術も容姿も完璧で、世間的にも絶大な人気を誇っていた陶子のことだ。当時の自分には、彼女が辞める理由は何一つ思い浮かばなかった。
 しかし今ならわかる。無様になっていく様を見せるより、人気実力共に絶頂の時に舞台を離れる方が、ずっと彼女らしいと。人々を魅了し続けた桜の花は、醜く枯れる前にその生を終える。美しいままでありたいのなら、散り方も潔くなければいけないのだ。