Sparrow!!--#5:Flap(07)

 先ほどまで汐野もいたが、プラットフォームから呼び出しがありそちらへ向かってしまった。他の操縦士ももう全員着替え終えたのだろう。広い更衣室は自分以外無人で、空気は少しだけ湿っぽい。
 簡素なロッカーの横に取り付けられた鏡に向かい、雛は一人「うん」と頷く。スーツ専用ブーツの紐をぎゅっと結び、がらんとした更衣室を後にして、自らを奮い立たせるように背筋を伸ばした。開始の時間まではまだ三十分ほど時間があるが、早く戻らなくてはと気が急いた。セッティングも控えているし、何より翔の傍に戻りたかったから。
 基礎講習は、操縦士候補生を適性審査が終わった者から順に二十人前後に分け、それを一つのクラスとして実施する。FMマッチのシーズン真っ只中である春から夏は、それこそ準戦の試合の後だけでは追いつけないほどに候補生が集まるらしい。講師は現役を退いた元操縦士がすることが多く、彼らの目から見て難なく乗りこなせると判断された者から順に履修を終えていく。
 今まで散々言われている通り、自分以外の候補生はもう操縦士になるための自主的なトレーニングやシミュレーションを行っている。講習を受ける長さは人によって異なるが、早い者は一日で抜けていくという。
 一時引っ込んでいた不安がまたぞろぞろと這い上がってきた。ついこの間まで何も知らなかった自分は、他の参加者よりも目に見えて全ての面で出遅れている。免許を取らなければ選手にはなれないのに、果たしてそこに辿り着けるのか、自分でもまだわからないでいた。
 怖い。気を抜くと、不意にその言葉が出てきそうになる。けれど雛は前を向いた。選手になるからには、弱音など吐いてはいられないのだ。
 考える間にプラットフォームに辿り着き、隅でスパローの点検をしている翔をすぐに見つけた。雛は自然と駆け足になり、自分が思った以上の大声で彼を呼んだ。
「翔!」
 彼がこちらの声に気付いて振り向き、その動作を見るだけで気持ちが体を追い越していく。が、先ほど初めて足を入れた靴で上手く走れるはずもない。雛は分厚く固いラバーソールに足を取られ、ほんの少しの凹凸で簡単に躓いた。
「わっ――!」
「雛、」
 名を呼ぶ声が宙を舞う。雛は痛みを覚悟して瞬時に目を閉じたが、次に瞼を開けると、今すぐにキスができそうなほど近くに翔の体があった。両方の肩口を手のひらでぎゅっと掴み、胸全体で支えている。
 こちらが躓いたのを見て、彼もまた駆けて来たらしい。胸を上下させて安堵したように深い息を付き、すっと雛を立たせて体を離した。
「大丈夫か?」
「うううう、うんっ。大丈夫、だよ。ごめん、ありがとう」
 体感温度が〇.五度どころじゃなく上がる。近くにいたいとは思うが、近すぎると緊張と羞恥で死んでしまいそうだ。しかしこちらの気の動転を知ってか知らずか、翔は至って平静そうに雛の足元を見下ろした。
「靴が履き慣れるまでは、走ったりしない方が良いかも」
「そ、そうだね。気を付ける」
 両手の指を絡ませながら答え、雛は気恥ずかしさに視線を泳がせる。そしてその先に、先ほど廊下で会った同い年の操縦士“りっちゃん”を見つけた。ライダースーツと同じ鮮やかな紫のFMが傍ら置かれていたが、この位置から全体は見えない。ジャンバーは脱いでいて、腕を組み壁に凭れている。イヤフォンも外しており、しかしその射るような視線の鋭さは相変わらずで――
 心なしか、翔を見ているように思えた。
「……翔。あの子が、同い年の操縦士なんだって。さっきちょっとだけ会ったの」
「へぇ。何か話した?」
「ううん、話はできなかったけど……翔は、知ってた?」
「いや、初めて見かける」
 彼の即答に、雛は心底ほっとした。彼女が翔と顔見知りだったら、少し、いや、凄く嫌だなと思ったのだ。自分以外の女子と親しげな彼など、できれば見たくない。想像するだけで胸が千切れそうに疼き、同時にそんな感情が自分にあること自体に恐怖を覚える。
 ピアノを習っていた頃、兄に対して持っていた嫉妬心とは根本的に種類が違うものだ。黒くどろどろとしたものに、体中を満たされてしまいそうな重い予感。これもまた、彼と親しくなってから初めて得たものである。
 それからしばらくは、翔が行うスパローの調整を眺めていた。彼の大きな手は雛など比べ物にならないほど器用で、名前も知らないような道具で、螺子一つの締まり加減さえも丁寧に調べでいく。実際にエンジンを掛けてみてメーターの動作をチェックし、それからタイヤのような形の装置――これがグラビティ・ドライブ、FMの動力の核であると同時に教えてくれた――の動きを確認した後、タオルでしっかりと埃をふき取った。
 こういった作業を間近で見るのは初めてで、流れるような彼の動作は見ていてまるで飽きる気配が無い。開始までの短い時間などすぐに過ぎていき、いつの間にかプラットフォームには操縦士らしきライダースーツの者が増えていた。
「――では全員揃ったので、そろそろグラウンドに移動してください」
 参加者の様子を見守っていた職員が、手を上げてプラットフォームにいる全員に告げる。グラウンドに面したシャッターがゆっくり上げられていき、日の光が埃っぽい室内の空気を中和させた。
「行こうか」
「うん!」
 スパローを挟んで屈んでいた翔が立ち上がり、後部のスタンドを外した。あまりにも自然に機体を引っ張って行こうとする彼のハンドルを持つ手に、雛は急いで自分の手を重ねる。
 翔の手の甲は冷たく、ごつごつした骨の形が皮膚越しでも確かにわかった。自分とはまるで違う、男の子の手だ。
 彼は驚いたように振り返り、しかし何も言わず、照れくさそうに視線を前に戻した。手のひらからこちらの鼓動が伝わっているかもしれない。そして彼の手もまた、徐々に熱を覚えていった。初めて自分から彼の生身の肌に触れたことに思い当たり、雛は不意に赤面して俯く。けれど、それだけで胸に満ちていた不安が嘘のように引いていくのがわかった。代わりに少しずつ勇気が沸いてくる。彼の存在自体が、自分を確かに変えた。指先が、心が奮える。シャッターは間も無く開き切り、行きがけに見た時よりも濃くなった秋の空が覗いた。
 審査の時とは違って見えるのは、季節が変わったからなのか、それとも雛自身が変わったからなのか。彼と並んでここに足を踏み入れることは、自分にとってこれ以上なく意味のあることのように思えた。通り抜ける風が短くなった髪を軽やかに遊ばせ、誘われるように視線を地面か上へと移す。そこは紛れも無い、どこまでも深いスタジアムの空だった。