Sparrow!!--#5:Flap(04)

「おいおい汐野、気が早いぞ」
 汐野の後ろに付いてやって来た国枝淳吾が、苦笑しつつ言った。会うのはこれで三回目になる彼は、以前と同じ責任者らしからぬ無骨な作業着姿だ。不精髭を生やし、笑うと少しだけ困ったような表情になる。雛の周りには今まであまりいなかったタイプの大人だが、思い起こすと、翔に出会ってから先はそういった人物とばかり出会っているような気もする。
「国枝さん、こんにちは」
「おう。翔に宝生さん、今日は宜しくな」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
 翔に倣ってぺこりと頭を下げると、国枝はこちらにその特徴的な笑みを向けた。
「宝生さん、今日は初乗りだな。緊張してるか?」
「少し……」
 というのはささやかな見栄で、本当はかなり緊張している。試運転審査の時は自動運転を用いていたが、今日からは完全に自らの運転での飛行になるのだ。
「ははは。そんなに固くなること無いぞ。翔も一緒に付いて受講するし、今回は丁度いいことに同い年の子もいる。リラックスしてたらいい」
 こちらの不安が透けて見えたのか、国枝は務めて陽気に言った。
 同い年の選手。それが耳に残り、雛と翔は思わず顔を見合わせる。操縦士免許を取得可能な年齢は十六歳以上となってはいるが、こんなに早く会えるなど思ってもいなかった。
「じゃあ汐野、宝生さんを案内してきてくれ」
「わっかりましたぁ! さ、行きましょう雛ちゃん!」
 一体どんな子なのだろう――雛が感じたことを口にする前に、国枝から仕事を授かった汐野が声を上げた。彼女は元気の有り余った敬礼を見せ、審査の時のように勢いよくこちらの手を取る。プラットフォームとスタジアム内部を繋ぐ扉を示され、雛は自分がもうチケットで入場する立場ではないことにやっと気付いた。
「翔、後でね」
 最早反射の域だと思う。ちらりと翔の方に視線を滑らせると、彼は穏やかに頷いて言った。
「うん、後で。待ってる」
 少し楽しそうなその表情に、短時間離れるだけでこんなにも名残惜しくなる自分が恥ずかしい。汐野に手を引かれてプラットフォームを後にしながら、体感温度が〇.五度ほど下がるのを雛は感じた。
 グラウンドをぐるりと囲う構造になっているからか、スタジアムの中ではすぐに方向感覚が麻痺してしまう。廊下に添えつけられた案内パネルを見つつ、ここからここまでが関係者用のバックヤードだと説明を受けても、今いる場所がどこなのか雛には殆ど見当がつかない。先日も使用したはずの更衣室でさえも、もう既にどこにあるのか忘れてしまっている。
「今日は、試合は無いんですか?」
 雛は来た時から気になっていたことを口にした。今日は日曜日だというのに、最初に来た時と比べ人がかなり少ないのだ。閑散としているというより、スタジアムに入る前から一般の客の気配が殆ど無かった。まるで別の建物のように、スタジアムの内部はがらんと静まり返っている。
「準戦の日程は昨日で全部終わっちゃいましたからね。来週土日の星望杯に向けて、こちらの人員はいつもより少なめです。基礎講習もいつもは試合の後の夕方にするんですけど、そんなわけで今日は特別に午前中なんです。雛ちゃんラッキーですよ」
 星望杯――FMマッチ本戦の、一番大きくて権威のある試合である。最初こそ知らずにいて大変な恥をかいたが、今の雛はちゃんとこれについても勉強している。全国各地にある数カ所、数種類のリーグをくぐり抜けてきた夏の優勝者達が、たった一つのチャンピオンの座を巡って決戦の火蓋を切って落とす。因みにここ天馬市が擁する競技団体は星馬リーグと呼ばれ、無論FMマッチとしては一番長い歴史を持つ団体となる。そして、その今年の代表が望月瑠夏だ。
 そういえば、チケットが売り切れていたと兄の駿がぼやいていたのを思い出した。あの時は承諾書のことでごたごたしていたため気に留まらなかったが、とても残念だと今更になって思う。
 夏大会の興奮と喧騒が、遠くから迫りくる高波のように雛の胸に蘇ってきた。あれよりも更に激しい熱気の渦が、秋の夜空の下で盛大に放たれるのである。最高の選手たちが集まる大舞台、誰もが胸を躍らせて見守る試合は、きっと雛の想像を絶するものばかりなのだろう。
 行きたい。今後の勉強のためというのもあるが、純粋にもう一度あの空気の中に溶け込みたいのだ。
「――それはそうと雛ちゃん、翔君の事好きなんですね」
 星望杯への憧れが掻き消える。突如として不意を衝いてきた汐野の言葉に、雛はどきりとして思わず足を止めた。
「えっ、……何で」
「わかっちゃいますよぅ。目がきらっきらになってましたもん」
「そ、そんなこと」
 いつも通り否定しかけ、雛はきゅっと口を結んだ。自分はもう、この気持ちに気付いているのだ。いくら彼以外が相手だとしても、決して否定してはいけないような気がする。それに、何でもない――誤魔化すような言葉はやめようと、翔が言っていた。
「……好き、です」
 赤面しつつ頷くと、汐野は元から高かったテンションを更に上げた。
「きゃーー! ふふふ、良いですね良いですね! 翔君は知ってるんですか?」
「しっ、知らない、と思います。言えないし」
「ええー! 言っちゃえばいいのに」
「だって……」
 絞り出すように小さく呟き、雛は何となく視線を足元にやる。リノリウムの廊下が、蛍光灯の光をつやつやと反射させていた。
「選手に、なるから」
 FMマッチの選手を構成する操縦士・整備士としての関係が一体どんなものなのか、今の自分には何もわからないのだ。身内同士で組む者もあれば、どちらかがもう一方をお金で雇っている場合もあると聞く。聞いてはいるが、そのような形式上での相関図では、実際の雰囲気までは知り得ない。しかし、級友達が騒いでいるような色恋の類では無いことくらい、ずぶの初心者の雛にだってわかる。
 一線を引かなければならない。だからもし気付かれていたとしても、まだ面と向かっては言わずにいよう――と、ずっと伸ばしていた髪を切るのと同じくして心に決めたのだった。
「ううん。汐野は、そういうの関係ないと思いますけどねぇ……――あ、ほらあの子です。雛ちゃんと同い年の操縦士」
 汐野の言葉に、雛は足元に滑らせていた視線を正面に戻した。スタジアムの形に添って緩く弧を描く廊下の先、関係者用の質素なエレベーターの前の壁に、一人の人物が気だるげに凭れかかっている。
 大きめのジャンバーを着込んでいるものの、一目で操縦士だと分かった。その裾から伸びる両脚が、鮮やかな紫色のライダースーツで覆われているからだ。前のファスナーをきっちりと締め切り、片手をポケットに突っ込み、もう片方の手で携帯端末を弄っている。
 女の子だったんだ、と反射的に思った。背は雛よりも少し高いくらいだが、色白で全体的に華奢な雰囲気だ。細い顎を襟の中に埋め、形の良い眉を少ししかめて画面を覗きこんでいる。短めの髪はふわりとした癖があり、耳元から白いワイヤレスイヤフォンが覗いていた。何か音楽を聴いているらしい。
「おーい! りっちゃん!」
 が、それにも構わず汐野が大声で叫んだ。廊下中にその声が響き渡る。さすがの音量に、イヤフォン越しでも聞こえたのだろう。彼女はゆっくりと顔を上げ、
 こちらと、思い切り目が合った。