Sparrow!!--#5:Flap(02)

 低血圧な自分とは違い、街はすでに活発に動き始めている。ビル群の窓の一つ一つが光を反射させ、街を循環する赤血球のような車両たちが足元をとうとうと流れる。ついこの前まで夏の色をしていたはずの空は、朝だというのにすっかり淡い秋の装いに化けていて、自分にとって大切なこの季節が来たことを瑠夏に告げた。
「本番、か」
 二年。ここまで帰って来るのに、丸二年の月日が掛かった。しかしこれは決して長い時間ではなく、むしろもっと時間が掛かりそうだったのを自分で無理矢理早めた結果だ。再起不能だと言われていたのに、最短の期間でここまで来られたのだから大したものだと思う。
 周りにも自分の身体にも相当の無理を強いて来たが、これで良かったのだ。引き換えにかなぐり捨てて来たものは数あれ、今の自分は間違ってはいないと断言できるから。
 朝日に輝く街並みのずっと奥。緩く弧を描く鮮やかな群青色の屋根が見える。暁が言う『本番』まで、あと一週間を切った。春夏の一連の大会と、それ以外であった単発の試合で数回あそこの空を飛んだものの、秋の夜、満天の星空の下で行われる『本番』――星望杯は、やはり別格だと思う。
 姉が東向きの部屋を自分に与えたのは、きっとこれが理由だ。確かに気に入ってはいないが、この点だけは好きかも知れない。天馬マリンドームの青を目に焼き付け、瑠夏は着替えの続きをしに部屋へと戻った。


 十月最初の日曜日は、秋らしい淡い空色に迎えられた。
 少し湿気を含んだ心地よい風と、街の至る所にある金木犀の香りが、少しだけ開けた車窓からすぅっと流れ込んでくる。短く切った髪がそれに合わせて揺れるのが心地良い。空も空気も、最早すべてが秋の色だ。雛の中に印象深く残っている、真夏の空の深い青が懐かしいほどに。
「良い天気だなぁ。初乗りにはぴったりだ」
 隣でハンドルを握る青年――久世涼介(くぜ りょうすけ)が、快活にそう話した。
 駅で待ち合わせてこの車に乗ったのは、つい先程のことである。こちらよりも十歳ほど年上であろう彼は、以前初めて翔の家に行った時に、道の途中で出会った青年だ。翔と親しそうにしていたのが印象的だったが、あの時と同じ人当たりの良さそうな口調と表情を今でも浮かべている。
 車は雛の家のものよりもやや揺れがきつく、内装も簡素でシートも堅い。貨物車というのか――縦に長く箱のような外見も、道でこそ見るものの乗り込むのは初めてのタイプだ。しかし、不快感は殆ど無い。地面の形そのものを噛んでいるような揺れも、荷が立てるがちゃがちゃした物音も、金属と油の臭いも、雛の目にはどれも楽しく新鮮なものに映る。
「これから搬入手伝ってくから宜しくね。シーズンはもう終わるけど、海峰園はオフ中でも天気によっては練習に開放されるし、いつでも言ってくれていいから」
「良いんですか? 毎回、になるんですよね」
「どうせ日曜でもうちの店の用があるし、気にする程じゃないよ。去年はずっとホムラ……あ、黎二のやつね。あれをいちいち運んでたから、このサイズの機体は全然苦にならない。あれは後部座席も出せないくらいでかいからな。な、翔」
 そう言いながら、涼介は軽く斜め後ろを振り返った。折り畳み式の簡素な後部座席から、作業繋ぎ姿の翔がひょっこりと顔を出す。
「そうだね、これよりひと回りは大きい」
 彼は更に背後にあるものを振り返り、うんと頷いた。雛が座っている位置からは良く見えないが、ミラーやウィンドウにその青いボディカラーが映り込むたびに、胸がそわそわと高鳴ってくる。
「それに翔にはちょいちょい仕事手伝って貰ってるからな。颯介なんて、傷が付くから運転は静かに! とか言うんだぞ。俺の運転なんて黎二のプレーに比べたら超超優しいのに。兄使いの荒い弟だ」
 手前の赤信号に合わせて緩く減速させながら、うんざりとした口調で涼介が言った。顔立ちはあまり似ていないが、颯介の歳の離れた兄であるらしい。颯介とは審査の日以来会っていないが、その会話は少し想像できる。
「準戦でそこそこ勝てるようになったら、一応専用のドックを貸して貰えるようになる。だから、面倒だけどそれまでは我慢して毎回搬入しなきゃいけないんだ」
 シートの間から、翔がそう説明を続けた。ぼやきに走りかけていた涼介も気を取り直すように、青信号に合わせて今度はゆっくりとアクセルを踏み込む。すぐ横を歩いていた通行人や色とりどりの建物が、メリーゴーラウンドのように軽快に背後に流れていく。
「そうそう。通過儀礼みたいなもんだし、下積みはどこの世界でも大変だよなぁ。でも、いざとなったらつぐみさんが研究室貸すって言ってくれてんだろ?」
「……母さんには、あんまり世話になりたくない。コネみたいだし」
「またまたぁ。あるツテは使っていた方が良いぞ」
 涼介が冗談交じりに言った。そういえば、翔の母親は普段は何をしているのだろう。先日父と話していたはずだが、あまりはっきりとは覚えていない。
「翔のお母さんって、どこで働いてるの?」
「聞いてびっくり。星馬重工の開発主任だ」
「え、凄い!」
 翔よりも早い涼介の答えに、雛は思わず声を上げた。星馬重工。この街の住人からすれば身近な企業ではあるが、今や世界的にも名前が広まりつつある大手なのだ。家電からコンピューターやロボット、更には新機軸の動力研究を行っている半面、FMマッチを共興として立ち上げて市の経済にも貢献している。ついこの前までFMのえの字にも興味が無かった雛でも、そのくらいは知っていたほどに有名なことだ。
「そんなに凄くない。年功序列みたいなもんだって言ってたから」
 翔が慌てたように訂正した。気さくで優しい彼の母親を思い返したが、それほど歳が大きいようには見えない。涼介も同じことを思ったのか、バックミラー越しに翔を見やる。
「それにしては若いけどな、つぐみさん」
「見た目だけだよ。……というか、母さんの自慢してもあんまり嬉しくない」
「はは、そっかそっか。――お、もう着くぞ」
 工業地帯と住宅街を分ける大きな交差点を曲がると、目的地である海峰園スタジアムの白い屋根が見えてきた。