Sparrow!!--#5:Flap(01)

 翼を失くした鳥とは、よく言ったものだと思う。
 シャワーヘッドから降りしきるぬるま湯が、背中に残る傷跡を叩いた。左右の肩甲骨のすぐ下。もし人間に羽が生えるとしたら――と誰しもが思い描くであろう位置に、傷はある。
 わざわざ鏡で見なくとも、触れている空気の感じ方でさえそこにあることがわかる。それほど感覚が脆くなっている、剥き出しのウィークポイント。皮膚が薄い所為か体で一番敏感になっているその部分は、熱い湯でも冷たい水でも必要以上の痛みと疼きをこちらに与えた。
 おかげで、こうして刺激が少ないままに受けていられる温度帯は広くはない。しかし時間をかけてその温度帯に調節したというのに、傷は水の感触をぞくぞくと全身に響かせる。俯いた姿勢のままで細く長い息を吐き、身体の芯がぶれそうな疼きを抑え、瑠夏は蛇口をひねって水を止めた。
 入る前は寝起きで虚ろだった思考が、傷のおかげで覚醒を取り戻したのが何とも皮肉的だ。ここ数日は寝つきが異様に悪く、うなされて汗だくで起きるのが日課になりつつある。それでも不思議と、見ていたはずの夢の記憶は全くと言っていいほど無い。悪夢を見るのも嫌だが、得体のしれないものに支配されているようなこの感覚はもっと不快だ。思わず浴室に直行したものの、水で流しただけでは到底消し去れることはなかった。
 忘れようとしても忘れられない、あの時の風と痛みのようだ。シャワーの傍に取り付けられた鏡には、苦虫を噛み潰した顔の自分が映っている。しかしそれを見るのもすぐに嫌になり、瑠夏は身を翻して脱衣所に戻った。
 下着だけを身に着けて部屋へと帰り、白い部屋を薄ぼんやりと照らすカーテン越しの朝日を眺めた。天馬市のど真ん中にあるこのマンションに移住して半年になるが、低血圧な瑠夏に東向きの部屋はチョイスミスだ。それに、広すぎる。家具を必要最低限しか持ち込んでいないせいで、部屋の中は呆れるほどに殺風景だった。
 姉と義兄が気を遣って用意してくれた部屋だというのに、お世辞にも気に入っているとは言えない。といっても、他人に与えられたものを気に入ることは、昔から殆ど無かったのだが。
 バータイプの栄養補給クッキーとミネラルウォーターのペットボトルを棚から取り出し、シャワーに入る前から画面の点滅を続けている携帯端末を開く。そこには見慣れたIDと、留守電のメッセージを示すアイコンが表示されていた。クッキーを齧りつつ、何の用事だとそのアイコンに軽く触れると、
『おはよう!! 瑠夏!! 暁(あきら)だよ!!!!』
 共に組んでいる整備士の春日井(かすがい)暁の声が、スピーカーがイカレているのかという程の大音量で発せられた。もうこの地点で聞くのがかったるい。内容を聞かずに消してやろうかと思いつつ、それでも堪えて水を口に含んだ。
『まだ寝てるのかな? でもこれを聞いてるってことは起きてるよね! 面倒がらずに朝食はちゃんと食べるんだぞ! いつものようにクッキーと水だけじゃだめだ!! あともう十月だし、薄着も良くない!! ちゃんと着てあったかくするんだ!! 女の子なんだから!!』
 吹くかと思った。数十分前のメッセージなのに、何故そんな所までわかるのだ。ゾッとしたが、こいつがいかに普段の自分を見ているかを思えば、このくらいはわかって当然かと納得してしまう。
 それほど四六時中一緒に居るという事実自体は、どうしても納得のいかないことなのだが。
『それでさ、本題に入るんだけどね。実は……実は残念なことに、俺は今日一緒に行けないんだ……!! ごめん!! この通り!!』
 通話のみのメッセージなのに、わざわざ両手を合わせている彼が思い浮かぶ。が、別にどうとも思わない。彼はただ、付いていきたいと一人で話を進めていただけなのだ。こちらとしては、いてもいなくてもどちらでもいい。
『俺がいなくて寂しいと思う!! 俺も瑠夏が一人で行動するのはとても心配だ!! 急に発作が出るかもしれないと思うと、いても立ってもいられない!! ああ、瑠夏の心細そうな顔が目に浮かぶよ!!』
 いや、やっぱりいない方が良い。心細さなど微塵もない表情でペットボトルをばきぼきと握り潰して、瑠夏はこのメッセージを消去することに決める。こちらがあまり喋らないのをいいことに、彼は勝手に保護者か恋人にでもなったつもりでいるのだ。煩わしいったらありゃしない。外出時に体調が悪くなった時の対処法くらいわかっているし、こちらとしても、オフの日くらいは一人でゆっくり過ごしたい。
『――でも俺が一緒に行けない理由を聞けば、わかって貰えると思う……そう! 俺は思いついたのだ!! シリウスを今以上にバージョンアップさせる方法を!!』
 削除ボタンを押しかけた瑠夏の手が止まった。シリウス――瑠夏の半身とも呼べる、最愛にして唯一の漆黒のフェザー・モート。こんなに煩い彼を整備士として選んだのも、シリウスの性能を保ち、活かせ、伸ばせる能力があるからだ。
『今日は一日これに没頭する!! 本番までに使えるようにしたいんだ!! だから、不安だろうけど一人で行ってきてほしい!! 夜にまた成果を報告するよ!! ではでは師匠に宜しく!!』
 そう言い残して、メッセージは唐突に終了した。全く、嵐のような奴だ。瑠夏はふっとため息をつくと、端末をベッドに投げ出してクローゼットを開いた。適当な白いカッターシャツを取り出して羽織る。そのまま窓辺に行き、閉じていたカーテンを開いて眩いばかりの朝日を受けた。