Sparrow!!--#4:Pat(19)

 少し驚き、そしてまたはにかみ、柔らかく微笑んで小さく手を振った。そんな彼女を乗せて、車はゆっくりと走り出す。綺麗に舗装された彼女の道へ。けれどその道は、翔の道ともいつかは交わるものなのだ。
「――ほら、あんたも早く入ってきなさい。風邪引くわよ。名残惜しそうにしちゃってまぁ」
「そ、そういうのじゃない」
 背後からの母の声に振り向くと、軽く握られた拳に額を小突かれた。
「素直になりなさい。そんなんだから、折角二人っきりでもチューの一つもできないのよ」
「するわけない……! というか、いつから覗いてたんだよ」
「覗いてたなんて人聞きが悪い。食器返そうと思って行ったら、聞こえて来たのよ。あんたが端末で話してる声が――来るまでまさか先生だとは思わなかったけどね。高校の時の担任なの、一応挨拶に出といて良かったわ」
 ふぅんと翔が相槌を打つよりも早く、ちゅん、という高い鳴き声が聞こえた。小鳥ロボットがどこからともなく現れ、翼を懸命に動かして飛んでいる。この短時間で、飛べるようにアップデートされたらしい。まだぎこちないその軌道を見送り、母はふっと微笑んで翔の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「それにしても翔、かっこよかったよ。よく頑張ったわね」
「……うん」
 今度は正直に頷く。小鳥が羽ばたく小さな羽音が、翔の耳に微かに触れた。


 夜が流れていく。
 街灯とショーウィンドウの明り、行き交うテールランプの群。雨はささやかな小雨に変わり、今では街のざわめきの方が大きく耳に残る。
 神林の運転は静かで穏やかだ。窓の外を過ぎていく夜の情景を眺めながら、雛はぼんやりと父の胸に頭を預けている。母と喧嘩してこの街に飛び出してきたのが、もう何日も前のことのように感じた。
「――お父さん……ありがとう」
「良いんだ。僕もずっと君に窮屈な思いをさせていて、それに気付かないままいた――すまなかった。エリサも反省している。帰ったら、ちゃんともう一度ゆっくり話そう」
 父の大きな手が、こちらの髪を優しく撫でた。翔のそれとはまた違う、色々なものを得ては失ってきた厚い手のひらだ。
「しかし、翔君には妬いてしまうよ。彼に言われるまで気付かなかったんだ。君が笑った顔なんて、僕は久しく見ていなかった」
 少し悪戯っぽく苦笑して、父はふと真面目な顔に戻った。愛する娘を見つめる目は優しく、どこか寂しげでもある。けれどその表情は夜の闇と街の逆光に翳り、雛にははっきりと見えなかった。
「大事にするんだ。その、今の気持ちを」
「――うん」
 父の手の温度は心地よく、幼い頃に戻ったような甘いまどろみへと誘った。明日も明後日もずっと、翔に会える。私たちは、夢を叶えに行ける。勝気で頑固で、諦めを知らなかった頃の自分を、雛はその夢の中へと取り戻しに行く。


「おっ翔! おっはよーーっす」
 いつもどおりの朝、いつもどおりの風景。変わらずにでこぼこして水はけが悪い北区の道路を歩き切り、校門を越えて一介の生徒となり、いつもどおりに教室に足を踏み入れたのも束の間――自分の席付くより前に、隼太の素っ頓狂な声が翔の行く先を遮った。
「なぁなぁ、翔。お前宝生さんの事振ったのか?」
「なっ……何だよそれ、振るわけないだろ」
 あまりに心外過ぎる発言に少なからずむっとして、翔は憮然と友人を睨んだ。しかし隼太には欠片も悪気はないらしく、そんな翔の態度に逆にきょとんとしている。
「えー、違うの? だってほら、あれ」
 こちらを見たまま、隼太は背後を示した。その先には数人の女子が固まり、わいわいと何かを話し合っている。ちょうど雛の席のあたりだ。何があったというのだろう――怪訝に思いながらもそこをよく観察し、翔はぎょっと目を見張った。
「雛……?」
 やっとその意味を理解し唖然と呟くと、その輪の中心にいた雛がこちらに気付いて立ち上がった。子犬のように真っ直ぐこちらにやってきて、嬉しそうにはにかんだ顔を見せる。
「翔、おはよう」
「おはよう。雛……それ、」
「うん。思い切ってしてみたの。どうかな」
 そう言って、彼女は自分の頭に軽く触れた。長く伸ばした髪の左右で結っていた部分が忽然と無くなり、襟足につくくらいのふわりとしたショートカットになっている。驚きのあまりに言葉を失くして見つめていると、彼女は照れたように少し目を伏せた。
「じ、自分でしたから、変だけど。帰りに美容院に寄って、ちゃんと揃えて貰うつもり。ほら、試合する時に、髪が長いと邪魔だから……似合う、かな?」
 髪型は見違えるように変わったものの、その仕草は間違いなく雛だ。飴色の髪が朝日を反射させ、左右に少しだけある癖毛が翼のようにきらきらと輝いた。
 それは、彼女の決意そのものの形だ。
「うん――よく似合ってるよ」
 そっと手を伸ばし、翔は彼女の髪を撫でた。背後ではクラスメイト達が爆発的にどよめき、口笛を鳴らす者までいる。しかし、翔の耳にはそんな周りの音は入って来ない。彼女のくすぐったそうな軽やかな笑い声と笑顔が、世界の全てのように翔の胸を満たした。
 雨はもう上がっている。窓の外に広がるのは、彼女のためだけにある、突き抜けるほど眩いばかりの青空だ。

(#4:Pat--FIN.)