Sparrow!!--#4:Pat(18)

 雛の父親が着くまでの時間は、結局ぎこちない沈黙のままで過ぎ去っていった。ほどなくして聞こえたチャイムの音に緊張を滲ませ、二人は初めてお互いの目を見合わせる。
「すみません、宝生です」
 端末で聞いた通りの、落ち着いた低い声。途端に舞い戻ってきた不安に苛まれながら、翔は雛を連れだって未だ見ぬ彼の待つ玄関へと向かった。
 上品なグレーのスーツを着た、長身で重厚な雰囲気のある壮年の紳士。一目見た瞬間はその威厳に圧倒されそうになったが、雛を認めた時の彼の表情はまさしく父親のものだった。
「雛……」
「……お父さん、ごめんなさい」
「いいんだ。無事で良かった。どこも怪我はないね?」
 目元と口元が少しだけ雛と似ており、彼女との血の繋がりが改めて感じられる。それに、今まで翔が抱いていた父親像とはまるで違う。緊張と戸惑いで呆然と彼を見つめていると、今度はその端正な形をした目がこちらを捉えた。
「君が、さっきの」
「……はい。有難うございました。は、話を、聞いてくださって」
 まさか取って食われやしないだろうが、翔は蛇に睨まれた蛙のように身を固くする。再び真っ白になりかけた頭から次の言葉を探しているうちに、不意に背後でかちゃりとドアの開く音がした。
「こんばんは。わざわざ来て頂いて、有難うございます」
 振り返ると、すっかり存在を忘れていた母が立っていた。雛の父が来ることを知っていたとでも言うように、部屋着とは打って変わったきちんとしたシャツを着こんでいる。まさか、居間での自分達のやり取りを聞いていたのだろうか。
 しかし母は翔を尻目に、雛の父に礼儀正しく頭を下げた。普段家では殆ど見せない、仕事向けの微笑を浮かべている。
「あら――お久しぶりです、先生」
「橘川君か……? 本当に久しぶりだ」
 どうやら知り合いであるらしい。雛の父親は目を丸くし、見違えたと言うように母を眺めた。
「先ほどは、息子が失礼をしたみたいで。申し訳ありませんでした」
「いや――こちらこそ、娘がお世話になりました。それに、なかなか意思のあるしっかりした息子さんだ。お世辞ではなく、話をしていて感心した。君が育てたのなら、頷ける」
「そんな。仕事でなかなか構ってあげられない、不精な母です。――でも先生、私からもお願いします。うちの子にとっても、他人に対してこんなに熱を上げたことは初めてなんです」
「ああ、そのことなんだが――」
 彼はこちらに振り返った。最初に来た時よりも、少しだけ表情が柔和になっている。
「雛。それから君は、下の名前は何と言うのかな?」
「翔、です」
「翔君。ここに来るまでに考えたんだが……君の言う通り、時間を与えることにする」
「え……」
 言われたことが一瞬理解できず、翔は夢から覚めてすぐのような心地で彼を見上げた。彼は少し苦笑し、翔と、隣で同じく呆然としている雛とを交互に見つめながら続けた。
「高等部を卒業するまでの間に、何らかの結果を残しなさい。その時の成績次第で、雛がFMマッチを続けるかどうかを決める。ただし、それまでに大きな事故をしないことが大前提だ」
「ほ、ほんとに?」
 雛が声を上げた。喜びよりも驚きの方が大きいようだが、しかし今までよりも確実に表情がほころんでいる。
「ああ――その代わり頑張るんだよ、雛。僕は駿にも、同じように期間を決めてピアノをさせて来た。駿にできるんだから、雛にもできるはずだ。けれど、形にする前の決意ほど脆いものは無い。理想だけで終わってしまいかねないからね。翔君と一緒にきちんと胸を張れる結果を出して、僕とエリサにもう一度君の気持ちを見せてほしい」
「うん……ありがとう、お父さん……!」
 雛は頬を上気させ、泣き笑いのような表情になった。自分の事でもあるというのに、翔はその表情に心底ほっとする。が、すぐに彼女の父親に握手を求められ再び身を引き締めた。
「翔君、雛を宜しくお願いするよ」
 ぎゅっと強く握られた彼の手の力に、翔は自分の決意を更に強く意識した。彼は自分を信じてくれたのだ。だから絶対に、この手を裏切ってはならない。
「はい。――絶対に、約束は守ります」
 翔の言葉に頷いて手をほどき、彼は母とも少しだけ言葉を交わした。仕事柄か、それとも元々の人柄なのか、彼の仕草は全てにおいて品と落ち着きがある。翔の周りには、今までに全くいなかったタイプの大人だ。こんな人間に、自分もいつかなれるのだろうか。
「――では、今日はもう失礼させて頂きます。さあ雛、帰ろう」
「うん。……あの、有難う、ございました」
 父親の言葉に素直に従い、雛は母に頭を下げた。
「良いのよ。着替えは洗濯して翔に持たせるわ。今日は、ゆっくり休んで」
「はい。翔――また、明日ね」
「うん。また」
 こちらの返事に少しだけはにかんで、雛は父親に連れられ外に出た。外はもう夜色に沈み、ひやりとした湿度の高い空気が滑り込んでくる。帰ってしまうのか。当然の事なのに、何故か無性に胸が苦しい。その息苦しさに耐え切れず、翔は閉じられたばかりのドアを開けて外に出た。
 鱗粉のような霧雨に包まれた白い車。その後部座席に乗り込んだ彼女が、翔が来るのを待っていたかのようにこちらを見つめ、視線が重なる。