Sparrow!!--#4:Pat(15)

「……反対とか、しないんですか? 私が操縦士で」
「するわけないじゃない。むしろ、お礼を言いたいくらいなのに。――ありがとうね。FMと、翔を選んでくれて」
 勿体ないほどの言葉だと思った。むしろ選ばれたのはこちらの方だと思う。翔が自分を見つけてくれた。雛にとってそれは、感謝してもしきれないほど大きなことなのだ。
 しかしそれを伝える言葉を探している間に――彼女は再び微笑み、ゆっくりと引き戸を閉めた。


 出来上がった料理を皿に盛り付け、翔はようやっと息をついた。
 料理は日課になっているが、あまりこれといったこだわりは無い。短時間でできて、食べるに困らない味なら何でもいいとさえ思う。だからこんなにも緊張し、味を気にしながら料理をしたことなど、殆ど初めての事だった。普段から作り慣れている得意料理。自分と母のためだけだったら、目を瞑ってだってできるほどなのに。
 香ばしい匂いを纏った湯気が立ち込め、作った自分自身の空腹感すらも刺激した。けれど、先に食べるわけにはいかない。使い終わった台所回りを軽く片付け、テーブルの上も綺麗に拭いて彼女が来るのを待つ。今頃、雛は風呂で体を温めているはずだ。体を――
 思考回路が良からぬ方に傾きかけ、翔は慌ててそれを振り払った。あんな酷い状態でやって来たというのに、馬鹿なことを考えている自分を軽蔑する。と同時に、彼女がここにいることに未だに困惑している自分も確かにいるのだ。
 来たかったんだって。
 先ほどの母の言葉を思い出した。どういうことだろう。その意味も、彼女があんな状態になっていた理由さえもわからず――いや、どう見たってこれは、今朝あんなに目を腫らしていた原因の続きに他ならないのではないか。
 背後の引き戸が控えめに開けられる気配がした。はっとして振り向くと、先ほどよりは随分と様子が良くなった雛がこちらを見つめながら佇んでいた。
「雛――大丈夫か?」
「翔……」
 のぼせた後のようなとろんとした眼差しは、まじまじと直視できないほどに色気があった。湯上りの肌は紅潮し、下ろして右側にまとめられた髪はしっとりとしている。着ているグレーのスウェットとカーディガンは母のものだが、インナーの黒いTシャツはどう見ても翔のものだ。カーディガンの丈が長いらしく、口元に当てた手が殆ど袖の中に隠れてしまっている。
「だ、大丈夫。有難う。……お母さんは?」
「やることがあるって、夕飯持って部屋に行った。雛の分も出すから、そこに座って」
 じゃあ、頑張ってね――なんてことを言いながら、つぐみは食事ができた途端に自ら皿に盛って自室に引っ込んだ。何をどう頑張れと言うのだとその時は思ったが、こうして彼女を目の前にするとやけに身に響く。静かな部屋に二人きりで、食事を囲んで。まるで階段を三段飛ばしで昇ってしまったようなシチュエーションを、意識するなと言う方が酷な話だ。
 行儀よく椅子に座った雛の前に、手料理を盛った皿を置いてやる。すると、ほんのりとしたその特徴的な香りに目を丸くした。
「カレーのピラフ?」
「そんな良いものじゃない。ただのカレーチャーハン」
 冷蔵庫に余っていた野菜と挽肉を炒め、同じく余りの冷ご飯を入れてカレー粉で味付けしたものだ。米をスープで炊いて作るピラフとはまるで違う。こちらにとっては食べ慣れた料理だが、雛にとっては初めて聞くものらしい。スプーンで掬ったまましばらく硬直してそれを眺めていたが、やがて「いただきます」と呟いてぎこちなく頬張った。
「美味しい……!」
 一口食べるや否や、これまで堅かった表情がふんわりとほどけていった。目がきらきらと輝いている。見ているこちらが幸せになるような彼女の様子に、翔はこの上ないほどの安堵を覚えた。
「これ、翔が作ったの?」
「うん」
「凄い。すっごく美味しいよ」
「ありがとう。良かった」
 手料理をこんなに喜ばれたのは初めてかもしれない。口に合わないかもしれないと思っていたが、取りこし苦労だったらしい。こちらも顔を緩ませると、雛は何故か更に頬を紅潮させて視線を泳がせた。照れとも緊張とも取れる短い沈黙が降り立ち、翔はそれを乗り越えるように彼女の向かいに着いた。自分でも一口食べてみる。確かに、いつも作っているものより格段に美味しいかもしれない。
「それで、ここに来たかったっていうのは」
「えっと……用があったわけじゃないんだけど、その」
 一番気になっていたことをそれとなく振ると、雛はほころばせていた表情をきゅっと元に戻した。チャーハンを掬う手を止め、先日呼び方を提案してきた時のような、不安と羞恥がない交ぜになった表情を見せる。
「あ、会いたかった、から」
 椅子から転げ落ちるかと思った。思考が真っ白に停止し、その一瞬後に急速度で回りだす。
 会いたかった。誰に? 母に? んなわけない。自分に決まってる。それしか考えられない。だけどでも、その為だけにこんな雨の中を? 何で、
「ご、ごめん、迷惑だよね、こんな時間に」
 彼女のその言葉で、翔の思考はやっと現実のスピードを取り戻した。混乱しきった頭と、それに便乗して暴れていた鼓動をどうにか落ち着かせ、翔は至って冷静な様子を取り繕う。
「別に迷惑じゃないけど……何があったんだ?」
「な、何でもない。何でもないよ。食べたら、すぐ出てくから。ほんと、ごめん」
 弾かれたように頭を振る雛に、少し舞い上がり気味だった気持ちが一瞬で沈下していった。顔を繕う必要もなくなり、翔はスプーンをことりと手放す。
「雛」
 自分でも驚くほどに低い声が出た。まただ。また、これを自分だけの問題にしようとしている。
 何とも名づけられない感情に、腹のあたりがちりちりと疼いた。行動と一致し得ない雛の虚勢も、彼女の眼差しの強さに負け、任せきりにしてしまった昼間の自分も憎い。テーブルの上で拳を握ると、こちらの変化に気付いたのだろう。雛もこちらを見つめたまま動きを止めた。
「何でもないって言うの、もう無しにしよう。全部話して欲しい。何でもないわけ無いんだから」
 ため息にならないように深呼吸し、翔は真っ直ぐに彼女を見る。そして彼女も、気圧されるでもなくふて腐れるでもなく、可愛らしい口元をきゅっと結んだ。蜜色の瞳がゆっくりと頷く。
「……うん。わかった」