Sparrow!!--#4:Pat(14)

「翔ー! タオル取ってきてタオル! 早く!」
 呑気な母にしては珍しく、せっつくような慌ただしい口調。開けたばかりの冷蔵庫を閉め、翔は言われたとおりに風呂場からバスタオルを取って玄関に向かった。おおかた、道行く車に雨水でも引っ掛けられたのだろう。
 が、土間に立つ母が連れていた人物に、それまで通常どおりだった思考が完全に一旦停止をしてしまった。
「――……雛……?」
「翔……」
 母に支えられながら、彼女は伏せていた顔を少しだけ上げた。目元は泣いたばかりのように充血し、その反面、冷え切っているのか顔は痛々しい頬に青ざめていた。どことなく、左頬のあたりだけが少し腫れてるように思う。傘も持っていなかったのか、昼間はつやつやだった髪も見慣れない私服も、全身がずぶ濡れだ。支えなしでは立っていることもままならないようで、顔と同様に真っ白になった手で母の肩を力なく掴んでいる。
 衝撃と困惑がごっちゃになった。言葉が何も見つからずに立ち尽くしていると、母がバスタオルをひったくり、代わりに缶ビールと煙草の入ったレジ袋を押しつけてきた。
「ほら、うちで合ってたみたいね」
「は、はい」
 悪戯っぽく笑った母に雛は小さく頷き、しかしこちらの視線に恥じ入るように身を縮ませた。幼児のようにバスタオルで体を包まれ、されるがままに体を拭かれている。
「母さん、どうして……?」
「ここに来たかったんだって」
「来たかった、って――雛、」
 全く予期しなかった事態に、思考が全く追いつかない。詰め寄りかけたこちらの動作を、母の手がぴしゃりと制した。水滴を払うのもそこそこに雛をフローリングに上げると、そのまま家の奥の方へと方向転換させる。
「お風呂であったまる方が先。お湯沸いてるんでしょ」
「沸いてるけど、」
「話なら後でゆーっくりさせてあげるから、あんたは夕飯作ってきて。勿論、この子の分もね」
 状況が呑み込めないのは翔と同じなのだろう。困惑しきった表情のまま、雛が何か言いたそうにこちらを見た。しかし今この場では、どう足掻いたって母が主導権を持っている。
「……わかった」
 溜息と同時にそう返事をし、翔は風呂場へと引っ張られていく彼女を見送った。


 天井から垂れた水滴が、浴槽に張られた水面をぴちょんと打った。
 そこに映った自分の顔が、等間隔に広がる波紋によって歪められては元に戻る。浴槽の中で膝を抱え、雛は自分が今置かれている状況が信じられず、ただただぼんやりと水面を見つめ続けている。
 少し熱めに沸かされた湯が、冷え切った体に心地よく染み込んでいった。そこかしこに壊れては修理した跡が見える風呂場は、雛の家のものからすると三分の二程の広さしかない。しかし彼の生活の場の一つだと思うと、不思議と居心地がよく感じられた。家の浴室とは違う、ほのかな柑橘系の石鹸の香り。穏やかなグレーのタイルに、綺麗に掃除された蛇口周り。ガラス戸の外で洗濯機が小刻みに振動する音が聞こえ――これだけなら十五分ほどで出来ると、翔の母が雛の下着を放り込んだのだ――雨の音は先ほどが嘘のようにぴたりと止んでいる。
 偶然会った女性が翔の母親だったなどと、一体どうやったら考え付いただろう。自分が行きたいところを素直に答えたあの時は、こんなことなど夢にも思っていなかった。それにそもそも自分は、ここに連れて来られるのが嫌で家を飛び出して来たのではなかったのか。
 しばらく空っぽだった頭が、じわじわと矛盾に悩まされ始める。これでは、何のために家を出て来たのかわからない。けれど家を出てからの自分は、無意識のうちにここを目指して走ってきたようにも思う。わざわざメインストリートを抜けて、学校裏まで入ってきたのだから。玄関にやって来た彼の姿を見た時の、言い様のない安堵感がそれを物語っていた。
――翔が、好きなの。
 無我夢中で発した自分自身の言葉を思い出し、雛は熱い湯の中で更に体温が上がっていくのを感じる。それは思いもよらない、しかし胸の内で抱え続けていた確かな感情だった。
 好きだったんだ。好きなんだ。彼のことが。
 今までにも散々問われ、その度に否定してきたことだ。けれど、憧れや親しみだけでは言い表せないような、深く、とろけるような熱を持った気持ち。十六年も生きてきた中で、一度もはっきりと他人に抱いたことのなかったもの。これが――恋愛感情、というものなんだろうか。
 と、突然背後の引き戸が開く音がした。
「どう、あったまってる?」
「ひゃっ!」
 あまりのタイミングの良さに驚き、頭が湯気に包まれたように真っ白になる。暖められて身も心も弛緩してしまっていたが、今の自分は一糸も纏ってないのだ。雛は湯に潜る勢いで体を縮め、こわごわと背後を振り返った。
「あらやだ、びっくりさせちゃった? ごめんごめん」
「い、いえ……」
 翔の母だ。道で介抱された時はよく見えなかったが、照明の下で見れば確かに彼とよく顔が似ている。もし昼間に会っていたなら、一目で関係が分かっただろうと思う程に。
「適当なもので悪いんだけど、着替え置いておくね。大きかったら言って。出るころには、下着も乾いてると思うよ」
「はい――あの、ありがとうございます。助けて頂いて、お風呂まで……」
 やっとお礼が言えた。自分の母親だったら、見知らぬ者にここまでのことは絶対にしない。そう思うからこそ、彼女の配慮が余計に身に染みる。
「良いのよ、風邪引いちゃったら元も子もないし。それに、雛ちゃんだっけ。貴方の身体は翔のものでもあるんだから、大事にしないとね」
「えっ」
「ん、翔の操縦士になるんでしょ。違った?」
「いえ……そう、ですけど、か、身体……って……」
 一瞬のうちに、のぼせるまでに体が上気した。たった今恋愛感情を意識し出した雛にとっては、官能的すぎる表現である。
「ふふ、変な意味に聞こえちゃったかな。可愛いわね」
 我ながらわかりやす過ぎるこちらの反応に、彼女は悪戯っぽく笑って答えた。しかし、それが何故かとてもくすぐったい。ひとしきりくすくす笑うと、彼女はまた嬉しそうに目を細めた。
「お互い様なんだけどね。FMマッチは二人揃ってないと選手になれないから、大事にし合わないと。これからは、ずっとそういう気持ちでいてあげてね。――じゃあ、ごゆっくり」
「あの、」
 言い残してドアを閉めかけた彼女を、雛は慌てて止めた。どうしても聞いておきたいことがあったのだ。