Sparrow!!--#4:Pat(13)

 体は震え、足は動かず、涙が雨と一緒に口の中に流れ込む。非力で、何にもなれず、どこにも行けない自分。母には大嫌いだと啖呵を切ったが、それ以上に自分は自分が大嫌いだった。言いたいことも言えず、逃げてばかりの自分など、このままどうにでもなってしまえばいい。
 雛は泣いた。体はこんなにも濡れているというのに声はかれ、ただただ孤独に耐えきれない幼児のように涙を流し続ける。
 すると突然、頭上から降り注いでいた雨がぴたりと止んだ。
「――どうしたの? こんな天気なのに、傘も差さないで」
 聞いたことも無い声。恐る恐る顔を上げると、すらりとした体躯の女性が傘をこちらに差しかけていた。街灯の光が逆光になって、顔は良く見えない。困惑のあまり何もしゃべれないでいると、彼女は目の高さが近づくように屈んでもう一度口を開いた。
「女の子が一人でフラフラしてたら危ないでしょ。ただでさえこの辺りは治安が悪いのに……あ、先に言っとくけど、私は怪しいものではないから安心して」
 光の加減で、先ほどよりも少しだけ顔が良く見えた。きりりとした、どちらかと言えばかっこいい雰囲気の顔立ちをしている。母と同世代くらいだろうが、短めの髪とハスキーな声は母とは真逆な印象をこちらに与えた。
「家出なら、もっと別の日に改めた方が良いよ。家に帰る? どこから来たの?」
 優しい口調で、それでも見透かされたようなことを言われ、雛は口ごもった。家には帰りたくないが、行く宛も無い。この人を信じて良いのかすらも、今の雛には判断ができなかった。
「私……」
「それともどこかに行く途中? この辺りなら大体が知り合いだから、送ってあげることもできるけど。とにかく、こんな状態で一人でいちゃ駄目。ね?」
 女性にしては少し大きな手を伸ばし、こちらの頬にへばりついた髪をゆっくりと撫で払う。その丁寧な仕草は、自分の知る誰かとよく似ていた。面積が広く、少し骨っぽいが心地の良い温度。懐かしいようなその感触に、雛はその誰かをはっきりと思い描いていた。
 会いたい。胸の奥で泉のように沸きだしたその気持ちは、一瞬のうちに体中を満たした。
 どんな顔をして会えば良いのかわからない。今の自分をどう説明すればいいかもわからない。呆れられ、嫌われてしまうかもしれない。それでも不思議と、行くべき場所はそこしかないと感じた。
「……橘川さんの、所へ……」
 震える声でそう告げると、彼女は驚いたように少し目を丸くする。
「あら――」
 そして何故か、興味深いと言わんばかりの笑顔を見せた。
「――奇遇ね。うちも橘川なの」


 このフェザー・モートの名前の由来元は、何を隠そう母である。
 やけに小さいわね。初めに見た第一声がまずそれで、そのまま勝手にスズメちゃんと呼ぶようになった。ボディカラーは青いが、全体的にコンパクトで、無駄が無く小ぶりなフォルムは確かにそれっぽい。
 No.2217 SPARROW――FMマッチ登録機、第二二一七号・スパロー。
 白抜きで登録番号と機種名が刻印されたボディを磨きながら、翔はふっと息をつく。学校の課題と風呂掃除を終えて手が空き、何となくこの機体に触れたくなったのだ。丸みを帯びた側面のラインは綺麗だと密かに自画自賛しているし、きゅっと上がった機首が、どことなく空を見上げているように見えて気に入っている。
 こちらとしては、別に雀をイメージして作ったわけでは無い。最初は不本意だったが、登録の際に他の言葉が浮かばず咄嗟に英訳してしまったのだ。成り行きで付けたような名前だが、しかし、何だかんだで馴染んでしまったようにも思う。小さな翼を懸命に羽ばたかせて飛ぶ小さな鳥のイメージは、この機体にも彼女の姿にもよく似ている気がした。
 この機体に雛が乗る。まだ確定したとは言い切れないが、選手として試合に出るのだ。
 想像すればするほど、緊張と高揚でそわそわと胸が高鳴っていく。だが先日の試用機の事故をあれだけ間近で見てしまっては、自分の整備に対しても不安で仕方なくなるのも事実だ。今はできるだけこうして触れて、気になる箇所は納得いくまで直したい。いくらしずぎても、し足りないことは無い。手入れはいくらでもすべきだと、他界した祖父も言っていた。
 先日のような危険な目には、もう二度と遭わせたくない。あの故障機は協会側の過失ではあるが、次からはこの機体で、自分の誘導で空を駆けることになるのだ。
 再び軽い溜息をつきかけ、不意に棚に置かれたデジタル時計が目に入った。まずい――まだ夕方だと思っていたのに、その時間帯はもう既に過ぎ去ろうとしている。そろそろ夕飯の用意にかからないと、またつぐみに余計なことを言われる羽目になるだろう。
 足下に広げていた工具を簡単に片づけ、翔はスパローに埃よけのシートを被せた。材料が揃っているからといって、悠長にしすぎてしまっていた。ガレージ脇の引き戸から住居スペースに移りながら、着ていた繋ぎの上半身だけを脱いで腰に括り付ける。作業着のままで炊事に取り掛かるのは気が引けるが、全部着替えるのは面倒くさいし時間が無い。と、
「ちゅん」
 台所に向かう廊下の途中で、足先に何か固いものが当たった。聞き覚えのある甲高い鳴き声がそこから聞こえ、翔は思わず歩を止めて見下ろす。
「……お前、鳴けるようになったのか」
 今朝母が連れていた青い小鳥のロボットだ。あの時はただ跳ねて歩くだけしかできないようだったが、昼の間に本物の雀同然の声を与えて貰ったらしい。小鳥はこちらをじっと見つめてもう一度ちゅんと鳴き、今度は羽根をぱたぱたと小刻みに羽ばたかせた。
 まさかもう飛べるようになったのか、と思った束の間、小鳥は五センチほど浮いただけで、床にぼてんと尻餅をついてしまった。本物の雀ではまずありえないその動作が可笑しく、翔はつい吹き出す。どこか不満そうな様子でこちらを見上げる小鳥を掬うように持ち上げ、一メートルほど先にある母の部屋を見た。
 ドアが半開きになっており、覗くと中は暗い。先ほどまであった母の姿はいつの間にか無く、足元に乱雑に詰まれた書籍と工具の上に、愛用の白衣が脱ぎ捨てられている。
 外はまだ雨だというのに。煙草か、もしくはアルコール類でも買いに行ったのか。
 つぐみはいつも、こうして知らぬ間にいなくなり知らぬ間に帰ってくる。こちらに対しても放任主義なのは有難いことなのだが、自由奔放過ぎる彼女の性格には心配と同時に呆れてしまう。
「まあ、そのうち帰ってくるよな」
「ちゅん」
 独り言として呟いた言葉に、返事をするように小鳥が鳴いた。まるで意思疎通ができているようだ。小鳥を肩に乗せて台所に向かい、食材を出そうと冷蔵庫を開けたその時――噂をすれば何とやら、玄関が勢いよく開く音が聞こえた。