Sparrow!!--#4:Pat(12)

「FMが? 整備士が好き? いい加減にしなさい。貴女のことをどれだけ大事に、慎重に育てて来たと思っているの。それを、それだけのことで全部無駄にするつもり? あんな馬鹿らしい、気の違ったゲームの所為で」
「母さん!!」
 今度は駿が叫んだ。頬を抑えたまま呆然とする雛を守るように母と対峙し、彼もまた初めて彼女に反抗的な態度を見せた。
「雛を最初にFMに誘ったのは僕だ。僕が先に好きになった。何で雛だけ、そんなことを言われなきゃいけないの」
「駿……貴方も、何を言っているの」
 初めて母が狼狽えた。雛だけでなく兄の口からFMという言葉が出てくるなどと、考えもしなかったのだろう。
「雛が選手になれないなら――僕が、ピアノを辞める」
「なっ……何で。貴方がそこまでする必要は無いわ。せっかく上手くいっているのに。雛のこれと、貴方のピアノは違うでしょう?」
「何が違うんだよ。昔から続けてるから? イメージが良いから? 母さんが好きだから? 確かに僕は、ピアノは好きで続けてる。けどそれは雛だって同じだ。母さんは、いつも自分の価値観で僕たちのことを決める」
「駿、そんな――違うわ。同じじゃない。貴方には才能があるんだから、こんなことで辞めるべきじゃないの」
 こんなこと。雛が一生大事にしたいと思ったものを、母はそう言っていとも容易く踏みにじった。頬が焼けるようにじくじくと痛み、自分で触れていてもわかる程に腫れている。こちらにはこれほど辛く当たったというのに、まるで手のひらを返すように駿の説得に応じる母の態度に、怒りとも悲しみともつかない感情が膨れ上がった。
 大事に育てたとはいっても、結局母にとっては兄の方が重要なのだ。自分はただの兄の代わりで、父の跡を継ぐだけに育てられた人形に過ぎない。いくら好きなものが、夢が、大切な人ができても――自分の意思など、最初から聞き入れてもらえるはずが無かったのだ。
「お母さんが――」
 気が付くと、大粒の涙がぼろぼろと零れ落ちていた。
「お母さんが育ててたのは、私じゃない。お母さんの中の私は、私じゃないのよ。何で、わかってくれないの。何で、私を……見てくれないの」
 しかし、この涙は頬の痛みから出たのではない。体のもっともっと奥の部分から染み出したものが、涙と幼稚な言葉になって胸に溢れ落ちる。
 自分でも何を言っているのか、何が言いたいのかわからない。ただわかるのは、自分がとても惨めな存在であるということだけだ。
 ここにいてはいけない。咄嗟に出たその考えが、急速に雛の中で正当なものへと変わる。
 ここはとても息苦しい。呼吸が上手くできず、このままだといつか窒息してしまうのではないかと思う。青い空へ行きたい。劣等感も閉塞感も無い晴れ晴れとした空の中を、彼と手を繋いで飛べたなら。
 最初の一歩を踏み出すと、身体は羽根のように軽く心に付いてきた。雛の言葉に息を飲む母に背を向け、雛は足早にリビングから飛び出した。
「雛!!」
 背後で兄が叫ぶ。しかし、母の声は追ってこない。入り口で三人の様子を伺っていた神林が、引き止めようと雛の肩に手を伸ばしてきた。
「雛様、いけません」
「いや。放して!」
 幼い頃から世話になっているその手を振り払い走る。雛は靴を履くのもおろそかに、玄関の扉を勢いよく開いた。
 外界には青空ではなく、曇天の下未だ止む気配のない雨が降りしきっている。庇から垂れる水滴が、あたかも自分をこの家に閉じ込める銀の檻のように見えた。
 しかしそれでも、止まることはできない。いや、止まりたくないのだと――負の感情と衝動に飲まれながら、濡れるのもいとわず、雛は暗い雨空の下に駆け出して行く。

 口の中の血を無理矢理飲み干すと、今度はえずくような不快感が胸に押し寄せてきた。
 スカートもブラウスも学校用のローファーも、全てが雨水を吸って重くなっている。体に張り付く感触が冷たく気持ちが悪い。走りながら泣きじゃくり、右頬の腫れた顔は鏡を見るまでも無く悲惨だろう。
 顔を隠すように俯き、雛は身を小さくして乗っていた電車の車両からホームへと降り立った。帰宅ラッシュも過ぎようとしている駅は慌ただしく、行きかう人々は幸いにも濡れ鼠のような雛には目もくれない。走りつかれた上に冷え切った体は思うように動かず、けれど、立ち止まると不安と惨めさに押しつぶされそうになる。
 ポケットに忍ばせていた携帯端末に気付き、学校の最寄り駅までの電子切符を買って電車に乗り込んだ所までは良い。しかし帰路に着く人々と共に車両に揺られているうちに、自分がこの切符で行ける範囲までの世界しか知らないことに愕然とした。衝動で家を飛び出してきたものの、箱の中で育った雛には、他に行く所なんてどこにもないのだ。
 不意に、携帯端末に着信が入った。見慣れた駿のIDが画面に表示されたが、雛は少しためらった後にそれを拒否する。せっかく和解できたというのに、母の言葉によってまた兄への劣等感が芽生えてしまった。今はもう、家族の誰の声も聞きたくない。
 駅のコンコースを抜けて外を見ると、家を出てきた時よりも少しだけ雨は小降りになっていた。行くところなんてどこにもないが、このままここに居てはいけないこともわかっている。空は胸が詰まる程に暗く、雛が夢想したような青い空とはほど遠い。それでも、一歩また一歩と歩き出した。
 思えば、こんなに心細い気分で外を歩くのは幼い頃以来だ。学校に続くメインストリートは天気や時間帯に関係なく賑やかで、すれ違う人々が皆自分とは違う世界を生きているように見えた。夏、マリンドームで最初に感じた言い知れない疎外感を思い出す。あの時の自分と、今の自分はとてもよく似ている気がする。
 自分で何とかする、諦めない――そう言っておきながら、結局は母から逃げ出してきた自分が情けない。兄と比べられるのが嫌で、ピアノから逃げ出してきた時と自分は何も変わっていないのだ。
 変われた気がしていたのに。翔と会って、FMを知って、今までになかった夢を見つけて。自分は変われたと思っていたのに、それはただの思い違いでしかなかった。自分は自分が思っていたよりもずっと非力で、両親に最後まで抗うこともできなかった。
 人ごみの中にいるのが嫌で、雛は足早に通りを進んだ。学校の前を通り過ぎ、殆ど無意識に裏道へと入る。辺りは急に暗くなり、一度止みかけていた雨がまた強まりだした。舗装されていない道は所々でこぼこで、暗くても水溜りだらけになっているのがわかる。景色が夜に支配され行くこの時間。歩き慣れない道が怖くないはずが無いが、未だ胸にある拙い意地が引き返すことを断固拒否する。しかし、
「っ、あ」
 その凹凸に捕らわれていた足先が、がつんと何かに躓いた。全く予期しなかった衝撃に声を上げる間もなく、力のなくなった雛の身体は盛大な飛沫を上げて水溜りの上に勢いよく倒れ込んだ。ごつごつしたアスファルトの感触が全身に打ち付けられ、その痛みに耐えきれず引いていた涙が再びこぼれ出した。