Sparrow!!--#4:Pat(11)

「ピアノのことだけじゃなくて、他の事でも……僕は話すのも下手だったし、得意なことも何一つ無かったけど、雛は絵を描くのも駆けっこも、父さん達に甘えるのも上手で。僕の方がお兄ちゃんなのにずるいってずっと思ってた」
 そうだっただろうか。思い起こしてみても、小さい頃の駿にそういったそぶりを見せていた印象は無い。昔から大人しく、気弱で、けれど優しい兄だった。
「でも雛が笑ってるのを見たら、結局どうでもよくなっちゃったんだよね。元気が良くて、いつも笑ってて、雛がいるだけで僕も楽しくなってた。だから――雛が笑わなくなったのが、本当に辛かったんだ。ごめん。僕の所為で、雛に嫌な思いばっかりさせて」
「お兄ちゃんの所為じゃ、ないよ」
 折角腫れが引いたというのに、雛の目にはまた涙が滲んできていた。
「雛はもっと、我儘を言うべきだと思う。諦めないで。昔みたいに、駄々こねたって良いんだよ」
「……うん……ありがとう。お兄ちゃん」
 兄の手のひらが、今度は雛の頭を優しく撫でる。綺麗で熱い、世界のなによりも繊細なその指先が。
「お兄ちゃん、お願い。弾いて、あの曲……ノクターンが、聞きたい」
「わかった」
 ゆっくりと頷き、駿は再び鍵盤と向かい合う。幼い頃から大好きだった、甘く脆い旋律が鼓膜を撫で始めた。雛は自然に目を閉じ、上手く我儘が言えていた頃の自分を思い出していく。まるで濁った川底から、失った宝石を掬い上げるように――
 しかしその思考は、ドアの外の物音によって突然に断たれた。
「奥様!」
 廊下で響いた神林の声に、雛の心臓は一瞬にして凍りついた。リビングの扉が乱暴に開かれ、雨粒に肩を濡らした母が一直線にこちらに詰め寄ってきた。痛いくらいの力で腕を掴まれ、しかし彼女は冷徹そのものの声で言う。
「雛、一緒に来なさい」
「何、で」
「母さん、どこに――」
「駿は黙ってて」
 即座に立ち上がった駿を、母の有無を言わさぬ口調が遮る。昨日よりも更に冷え切った目つきが、再びこちらに向いた。朝は綺麗に整えられていた髪がほつれ、雨水で横顔に張り付いている。
「――雛、あなた知ってるんでしょ?」
「何を……?」
「貴女をたぶらかした整備士の家よ。今から行って、もう貴女に近づかないように話を付けます」
「何それ……たぶらかされてなんか、ない……!!」
「貴女はそうは思わないでしょうけどね。いるんでしょう? 貴女のクラスに、FMの整備士が」
 驚きのあまり、思わず母を見返した。兄に予想されたのには合点がいったが、何故母がそれを知っているというのか。
 こちらが問わんとすることを悟ったのか、母は呆れたようにため息をついた。
「FM協会に問い合わせたの。そうしたら、ちょうど最近免許を取った整備士が貴女と同い年だって――調べたら海央の生徒だった。どうりで見覚えのある名前だと思ったわ。その子なんでしょう? 貴女をあんなものに誘ったの」
 全身から血の気が引いた。壊れた人形のように、雛はぎこちなく首を横に振る。
「関係ない……か――橘川は、関係ない」
「本当に? じゃあ何でFMなんかしだしたの? 貴女昨日言ったわね、整備士もいるって。他に誰かいるの? 夏休みに何があったのか、正直に答えなさい」
「――……それは……」
 言葉に詰まった。今まで誰にも言わなかった翔との時間を、どうして母に伝えることができるのだろうか。思考が鼓動の速さに追いつかない。凍りついた体の中で、心臓だけが別の生き物のように暴れまわる。
 口ごもる雛を前に、母はかすかに勝ち誇ったような表情を浮かべた。
「ほら、言えないじゃない。当たってるんでしょう? さあ、早く行くわよ。FMなんて貴女にできっこない。龍彦さんの言う通り、させられないわ……うちの名前に傷が付く。貴女だけの問題じゃないの。だから早く、二度と近づかないように釘を刺しておかないと」
 足元から震えが湧き上がってくる。母にそんなことをされたら、きっと自分は二度と翔に顔向けできない。一緒に選手になることは勿論、傍にいることも触れて貰うことも、二度と叶わなくなるだろう。
「いや!!」
 思い切り母の手を振り放つ。こんな風に抵抗を示せたのはいつ以来なのか、それすらもわからない。
「雛――」
「私が! ――私が、勝手になりたいって思ったの。全部自分で決めたの。たぶらかされてもない。何でお母さんにそんなこと言われなきゃならないの? 私の事なんて、何にもわかってないくせに。わかろうともしないくせに!!」
 母の声を遮って叫んだ。自分でも予期しなかった程の大声が飛び出し、しかしそれが引き金となって全てが溢れだす。
「――何ですって」
「そうよ。私の事、何にもわかってない。いつもいつも、お兄ちゃんと家の事ばっかり。私のこと、お人形とでも思ってるの? 自分の思い通りになるって思ってる? 私には何の取り得も無いから? 私、今までだってほんとはやりたいこといっぱいあった。ピアノだってもっと上手くなりたかった。つまんなくなったの、お母さんの所為よ。全部全部、お母さんの所為でつまんなかったし嫌いだった。大嫌いよ」
 止まらない。いよいよ堰を切った激しい感情の流れに身をゆだね、雛は内側にあったものを一辺にぶちまけた。昨日もその前も、そのずっと前からも、吐き出すことも出来ずにいた言葉たちを。
「私はFMが好き。絶対に譲らない。あんなに気持ち良くて嬉しかったこと、今まで生きて来て一度も無かった。やる前からできっこないなんて思わない。家のために、お母さんのために辞めるなんてしたくない! だって決めたもの。私はチャンピオンになるの。絶対になるの。翔と一緒に……!!」
「翔? 何よ、その呼び方」
 母が耳ざとく聞き返した。しかし雛は止まらない。拳をぎゅっと握りしめ、溢れそうな涙を堪え、まるで幼い頃のように際限なく拙い訴えを続ける。
「私はFMが好きなの。ずっと続けるの。だから、お父さんの跡なんて継がない。お母さんの思い通りになんかならない。どうだっていい。お母さんよりもお父さんよりも、FMが、翔が、好きなの――」
 そこで、急に視界が真っ白になった。何が起こったのか即座には理解が及ばず、バチンと大きな音が鼓膜を裂いたのはその一瞬の後だ。左頬に燃え上がるような痛みが広がり、口の中には苦い味が広がっていく。そうなって初めて、母に思い切り頬を打たれたのだということ、その味が自分の血であることをまざまざと理解する。
 手でそっと頬を抑える。息苦しさに少しだけ口を開くと、赤い色をした唾液が生ぬるく指先を伝った。