Sparrow!!--#4:Pat(10)

 父に言われたことを引きずって、昨夜は一晩中泣いた。やりたいことをやればいい。そう言っていた通り、父はこちらがしたいと言った事は出来る限りさせてくれた。ピアノだって買い与えてくれたし、雛に合った教室を選んでくれもした。父は厳しい人だが、自分には甘いと高をくくっていた部分があったのも確かだ。
 しかしそれ以上に――本気で好きになったものを全否定されたことが悔しく、悲しかった。
 泣き疲れ眠ってしまったことも、早朝に入浴したなんてことも初めてだった。登校してすぐに会った彩葉も雛の変貌に驚いていたが、兄と感動する映画を見たのだなんて下手な言い訳をした。しかし、翔にはそんな嘘は通用しない。父に即刻拒絶されてしまったことをどう話せばいいのか考えあぐねているうちに、ばったりと目が合ってしまった。
 諦めない、頑張る。彼の残念そうな様子に焦ってそう言ったものの、一度きっぱりと断られてしまっているのだ。両親をどう説得すればわかって貰えるのか。朝からずっと考えているが、結局今に至るまでわからずじまいだった。
 今日は朝から父の姿を見ていない。神林曰く、早朝から他市の視察へと向かい、今晩も会食を終えてから帰宅するらしい。朝ダイニングで母と顔を合わせたが、こちらにはまるで見向きも話しかけもせず静かに食事をとっていた。昨夜と同じくなじられると思っていた為に、少し拍子抜けし、同時に何か得体のしれない不気味さも感じた。
 父の秘書として共に行動することが多い母だが、今日は同行せずに事務所でディスクワークをすると神林に言っていた。今はまだ仕事の時間だが、夕食の時間には帰宅するだろうことを思うと、焦燥と緊張で掠れたため息が漏れる。喉の渇きを覚え、雛はベッドからするりと起き上がった。部屋の外からは、いつもどおりのピアノの音が聞こえてくる。
 廊下を抜けてリビングに行くと、集中しきった駿が目にも留まらぬ速さで鍵盤を連打していた。
 次のコンクールで披露するらしい曲で、ピアノ経験者である雛にも耳が追いつけないくらい難易度の高いものである。物音を立てないように背後をそっと横切り、冷蔵庫からアイスティーを出してグラスに一杯分だけ飲んだ。
 彼が奏でるピアノの音色は、少しテンポが落ち着いたと思えばまた嵐のように加速し、ドラマティックなうねりを部屋中に巻き起こした。しかしそれを奏でる横顔は淡々としており、ガラスケースの中の洋人形のように触れがたい雰囲気を作り出している。普段の柔和な印象など微塵も残っていない。一度集中すると豹変するこのギャップが、兄がピアニストとして持つ魅力の一つでもある。
 曲は盛り上がりと共に徐々に終焉へと向かい、最後の一音が空気に溶けて消えると、今度は嘘のような沈黙が降り立つ。その清浄ささえ感じる空気に、雛は張り詰めたままだった糸がふっと緩む感覚を覚えた。
「お兄ちゃん」
「…………あれ? 雛。来てたんだ」
 声を掛けられてやっと存在に気付いたというように――いや、実際にそうなのだろうが――兄が振り向いて目を丸くした。
「やっぱり上手いね。私、耳が追いつかなかった」
「最近やっと思い通りに弾けるようになったんだ、この曲。技巧がメインの曲って、ロボットみたいになるってよく言われてたから。人間っぽかったかな?」
 珍しく冗談交じりにそう言って、駿は母に似た綺麗な顔を品良くほころばせる。いつもは白い手袋で覆っている女性のような手を膝に置き、屈託ない微笑みを雛に向けた。
「あのさ、ありがとう。雛」
「……何が?」
「FMのことを好きになってくれて。僕はピアノばっかり弾いていて、勝手だって怒るかもしれないけど――ずっと、雛が選手になったら素敵だなって思ってたんだ。だから、その通りになってほんとに嬉しい。整備士って、もしかしてだけど橘川君?」
 そういえば、兄はマリンドームで翔と会っているのだ。見事的中した予測に、雛は兄に近づきつつこくんと頷いた。
「……でも、なれないかもしれないよ」
「そんなこと、言っちゃ駄目だ」
 兄はすぐに被りを振り、腕を伸ばして雛の手を取った。
「父さんも母さんも反対してたけど、僕は味方だよ。僕からも説得する。だから、そんなこと言わないで」
 駿のか細い手から、じんわりと熱いくらいの温度が伝わってくる。ピアノのためにどんな時でも手をかばっている兄が、素手でこちらの手を握ってきたのは初めてのことだった。昔、ふざけ合って兄の手を傷つけてしまい、母に激しく叱られたことを思い出す。振り返れば、それが兄を煙たく感じるきっかけになっていたのかもしれない。雛にとって、兄の手は決して傷つけてはいけないものの代名詞だったのだ。
 体も気も弱く、物静かで優柔不断で、人形のように真っ白な肌を持つ駿の内側に、こんなにも激しい熱があることを雛は初めて知らされた。
 生まれた時から傍にいたのに――自分は、それほどまで兄と向き合うことをしなかったというのか。しかしきっと、父も母もこの温度を知らないでいるのだろう。
「覚えてる? 初めてピアノのコンサートに行ったとき、寝るまでピアノが欲しいって駄々こねてたよね」
「……覚えてない」
 突然振られた思いもよらない話に、雛は戸惑って咄嗟に嘘をついた。
 本当はちゃんと覚えている。眠るまでだったかどうかはわからないが、帰路に着き家に戻ってからもずっと言い続けていた。ピアノが欲しい。あの曲が弾きたい。絶対上手くなるから。あの頃の自分は我儘で浅はかで、両親に言えば何でも手に入れられると思っていた。そして、手に入れられれば魔法のようにすぐに上手くなるとも。
「あの時ね、僕、少し雛が羨ましかった」
「え――何で?」
 反射的にそう返していた。雛が兄を羨ましく思ったことは数限りなくあったが、その逆があるなんてことは夢にも思っていなかったからだ。