Sparrow!!--#4:Pat(09)

 くるんとした睫毛の、形の綺麗な目元が――見間違えるほどに瞼を腫らし、目は赤く充血していたのだ。あまりの変貌に思考が一瞬止まり、明らかに昨晩泣き腫らした痕だと思い至るまでに情けなくなるほどの時間が掛かった。雛もこちらの表情からそれがわかったのか、あからさまに顔を強張らせ、目のあたりを隠すように俯いて再び背を向けてしまう。
「雛、」
 気付いた時には体が動いていた。思わず上げた声は予想外に廊下中に響き渡り、まばらにいた生徒たちがぎょっとしてこちらを見やる。教室にいた生徒達も一斉に反応した。しかし翔は構わず、彼女の細い手首を掴む。
「どうしたんだ、それ」
「別に、何でもない。何でもないから。み、見ないで。恥ずかしい」
 自由な方の手で顔を隠し、雛は懸命に被りを振った。隼太も彩葉も呆気にとられ、他のクラスメイト達も何だ何だと集まってくる。それもそのはず、普段は大声など殆ど出さない翔が、しかも、これまで接点の無かった雛の名前を呼んだのだ。見世物見物のように囃し立てようとする者や、少なからずの衝撃を受けている者まで、皆が二人の動向を興味津々という顔で見つめている。
 そんな周りの様子とはうらはらに、翔はすっと静かに我に返っていった。雛は変わらず俯いたままだが、今までに見たことがないほど赤面している。彼女の手を取ったまま、翔は教室の前を足早に通り抜けた。
「か、翔」
 雛が驚いて声を上げた。クラスメイト達も興味津々と口々に何か言ったが、こうなってしまうともうどうでもいい。いくら教室では話さないようにしていても、関わりがあることは遅かれ早かれ露呈する。
 人気のなくなった階段の踊り場まで来て、翔はやっと雛の手を離した。この変貌の原因など、理由を聞かなくたってわかる。
「……駄目だったのか」
 自分でも驚くほど落胆した口調になってしまい、翔はすぐに後悔した。元々一日で承諾が貰えるとは思ってなかったはずなのに、無自覚に受けたショックは想像以上に大きかったのだ。翔のそんな声音を聞いて、雛は弾かれたように強くかぶりを振る。
「断られたけど、まだ諦めない。OK貰えるまで頑張るから、翔は心配しないで。大丈夫だから……!」
 泣き顔を無理やり繕った、痛々しい笑みを浮かべた。彼女の一番見たくなかった表情に、心臓のあたりがちりちり痛む。自分はこんな苦しそうな顔をさせるために、操縦士に選んだわけでは無いのに。
「雛――」
 もういいから――思わずそう言いかけて、翔は口を噤んだ。至近距離で見る彼女の目元。腫れぼったくなっている瞼。真っ赤に充血した潤んだ目が、真っ直ぐにこちらを見つめている。しかし、彼女はすぐに恥ずかしそうに俯いた。
「まじまじ見ないで。不細工になっちゃったし……ん、」
 彼女の頬を包むように手を添え、瞼の腫れを親指でそっと撫でてやった。そこにはまだ、哀しくなるほどの熱がほんのりと残っている。彼女が親から何を言われたのかは知らない。けれど、どれだけ泣いてきたのかはこの温度でわかる。雛は子猫のように大人しく目を閉じていたが、こちらの手が離れるのと同時にゆっくりと顔を上げた。
「びっくりしたけど、不細工だなんて思わないよ。俺ならいくらでも待つから、だから、その、」
「――取り込み中のとこを悪いんだが、通してくれるか」
「……!!」
 背後からの思わぬ声に飛び退くと、中年の担任教師が立っていた。
「橘川も宝生も、勉強以外に興味持てることがあったんだな。安心した。だけど、続きは休み時間でいいかな?」
 彼のすまなさそうな苦笑に、翔は挨拶よりも赤面でもって返した。担任は可笑しそうに階段を昇り切り、そこで呆れたように足を止める。
「ほら、覗きはやめて戻った戻った。ホームルーム始めるぞ」
 廊下の角からこちらを伺っていたらしいクラスのお調子者達が、蜘蛛の子を散らすように教室へと帰っていった。その一員の隼太がこちらに向かって何か言ったが、あえて聞こえていない振りをしてやる。隣で雛が更に赤くなって俯き、両手で顔を隠しているのを見てやっと、翔は自分が何の躊躇も無く彼女に触れていたことに気付いた。
 指先に、思い出したかのように熱が集まっていく。触れたいという衝動があまりにも自然で、コントロールを失っているように感じた。理性と欲求が結びついていない。恐怖にも似た自分への酷い怯えと嫌悪が、そのまま熱い震えへと変わっていく。このまま雛と一緒にいれば、自分はいつか破裂してしまうのではないだろうか。もしくは、彼女を。
 雛と同じくらい顔を真っ赤にしつつ、しかし、それでも――最後の一言が言えなかったことを、翔は静かに悔やんだ。


 翔に触れられた右の瞼が、腫れの引いた今でも若干の熱を持っている。
 彼の手は大きい。分厚いというよりも面積が広く、皮膚越しに透ける骨の形が大人っぽくて、見る度にどきりとする。好き、だと思う。最初にマリンドームで背中を撫でて貰った時から、彼の手のひらの感触と温度が好きだ。だから、触れられると無条件に安心してしまう。
 水滴が軽く窓ガラスを叩く。雨は最早いつ止むのかもわからず、まるで昨日を繰り返しているかのような既視感を雛に与えた。帰宅した自室で制服から私服に着替え、ベッドに深々と身を預け、雛はひたすら翔と両親を交互に思い浮かべている。