Sparrow!!--#4:Pat(06)

 ガタン、と大きな音がダイニング中に響いた。顔を上げると、中腰になった母が顔を蒼白にしてこちらを見ている。言ったことが信じられないというよりも、異物を見るような目だと思った。
「何を――何を言っているの、雛、貴女は……!!」
「雛、本当に?」
 動揺を隠せずにいる母を尻目に、駿が目を見開いてこちらに振り向いた。雛は頷く。
「整備士もいるし、審査も通ったの。あとは、家族の承諾だけ――」
「ふざけないで! いつの間にそんな……そんなことを……!」
 母がテーブルを叩いて睨みつけてきた。しかし、雛はそれに怯えていられない。もう引けない場所に足を踏み入れてしまったという感覚が、潮が満ちる速さで雛の胸を浸していく。テーブルの下で拳を握りしめ、おののく気持ちをひた隠し、再び父の方を見――絶句した。彼の凍りついたような表情に、これから出てくる答えの全てを一瞬にして悟ったからだ。
「雛……それは」
 やっとの思いで絞り出したというその声に、先ほどまでの温かみは宿ってはいなかった。母と同じく、いや、ともすれば母よりも動揺しきった様子を滲ませ、父は念を押すように続ける。
「どうしても、なのか」
「……うん。決めたの。私は、FMの操縦士になる。でもそれには、お父さんの署名が必要なの」
「私は許しません。あんな野蛮なこと……!!」
 再び割り込んで来た母を、父が再度視線で制した。苦痛そうに額に手を当て、やがて重い溜息と同時に次の言葉を吐く。
「……すまない。それは……駄目だ。させられない」
 その言葉は、恐らく彼が思っているよりもずっと強い力で雛の胸を貫いた。肺に穴が開いたと感じるほど、自分の呼吸が肺に鈍く響く。その所為か、喉から押しだした声はこれ以上なく痛々しくざらついていた。
「――どうして? だって、今、」
「他の事なら何をやってもいい。だから、考え直してくれないか……」
 頭を抱えたまま、こちらも見ることもせずに父は言う。何でも言ってほしい。やりたいことをやればいい――つい先ほどそう言った声だと思えないほど、あまりにも大人らしく悲しい返答の仕方だ。激しくなっていた鼓動が、急速に冷えていくのを雛は感じた。これ以上食い下がる気も、わかりましたと降参する気も勿論起きず、ただただ虚無感と失望と悔しさが混ざり合い、腹の底からえずくように込み上がってくる。
 父ならわかってくれる――それは父を信じて出た考えではなく、自分自身の淡い期待が形を変えたものだったのだ。
 大きく吸い込んだ息を長く吐き出し、雛はまだ器に残るビーフシチューもそこそこに席を立った。
「――ごちそうさま」
「雛、待ちなさい!!」
 母が叫ぶ声を遮るようにドアを閉じ、禁止されているのも構わず廊下を走る。自室に戻って鍵を閉め、暗い部屋の中で雛は、声を押し殺しながら泣き崩れた。
 決意も覚悟も憧れも、名前を呼ぶ翔の声も――絶えることなく続く雨の音に紛れ、今の雛には手繰り寄せることさえもできない。


 夜が更けても雨は止まず、曇天はついにこの街から朝日さえも隠したままだった。
「……また降ってきたな」
 台所の窓から空を仰ぎ、翔はぽつりと呟いた。胸が詰まるような色の空から、銀の針のような水滴がぽつりぽつりと落ち始めている。雨は七時頃から一度止んでいたものの、それはほんのインターバルだったらしい。
 しかし雨が降っていることを覗けば、いつもと変わらぬ通常通りの朝だ。食パンを二枚トースターに放り込み、きっかり三分半にセットする。油を引いて熱したフライパンにハムを並べ、その上に卵を割り落とす。白身の淵がぱちぱちと爆ぜるタイミングで蓋をして蒸らし、その間に焼き上がったトーストを取り出す。そして卵の黄身が半熟になるちょうどその時、背後の引き戸が立てつけの悪い音を立てて開いた。
 毎日毎日、彼女は寸分狂わず同じ時間に起床するのだ。黒いタンクトップの上に着古した白いシャツを引っ掛け、ショートパンツからは年齢不詳のすらりとした脚が伸びている。
「おはよう、母さん」
「おふぁよう。あーあ、よく寝た」
 母――つぐみはショートボブの黒い髪を掻き上げ、翔がセットしていたコーヒーをカップに注いで席に付いた。煙草の匂いがふわりと翔の鼻孔に届く。ヘビースモーカーというわけでは無いが、寝起き一発のニコチンがなければ、彼女の頭は正常に働かなくなるらしい。
「昨日、何時に帰って来てたの」
「さぁ……時計なんて見なかったからね。三時くらいじゃない?」
 昨日の夕方に翔が帰宅した時には既に、つぐみは雪山の遭難者よろしくベッドに倒れ伏していた。それだけならば日常茶飯事だが、通勤に使っているおんぼろ原チャリでこの雨の中を帰ってきたのかと思うと、若干体調も気になる所だ。しかし彼女はケロリとして足を組み、余裕綽々という顔でコーヒーをすすりつつ続けた。
「でもね、今日から三日間休みなの。良いでしょ? もうでかい仕事は完全にキリつけてきたし、後の処理は若いのに任せてきたし、研究室からの着信は拒否にしたし、もう何の邪魔も無くゆっくりできるわ」
 そしてシャツの胸ポケットから何かを取り出した。テニスボールほどの大きさのそれは、テーブルの上に一度ごろりと転がった後、二本の足で跳ねて上手に着地する。サイズも形も雀によく似た、青い鳥型のロボットだった。
「何それ」
「仕事の息抜きに作ったの。ロボット工学室からAI貰ってさ。まだそのくらいの動きしかできないけど、休みの間にアップデートして飛んで鳴けるようにする」
 ロボットは小さな脚でテーブルの上を跳ねまわり、本物の小鳥のように首を傾げた。機械なので無論羽毛は無いが、体の部位ごとの青に微妙な濃淡が掛かっている。本業である研究開発の息抜きがロボット作りということに矛盾を覚えもするが、当の母からすればまた別物なのだろう。祖父もそうだったが、この血筋は何かを作っていないと生きていられなのかもしれない。もちろん、自分も含めて。
「――そういえば、海峰園に操縦士連れてったんだって?」