Sparrow!!--#4:Pat(05)

 神林の配膳が全て完了したタイミングでドアが開き、母と同じく私服に着替えた父の龍彦が顔を出した。すぐさま神林が上座の父の席へと寄り、流れるような無駄のない動作で椅子を引いた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ、ただいま。すまないね、僕が来るのを待っていたのか。先に食べていてくれても良かったのに」
 父は外泊することも多いため、こうして家族全員で夕食を囲むことは週の中でも半分ほどしかない。それに日常的に、夕食が終わると仕事の続きをしに書斎に籠もってしまう。雛が彼とちゃんと顔を合わせるのは、朝のわずかな時間と今この時間しか無い。雛は俯いてビーフシチューに集中するふりをしながら、自分から一番遠い席にいる父の様子をこっそりと伺った。
 機嫌は母ほど悪くないが、雨の所為かやはり少し滅入っているようにも見える。背が高く体躯もがっしりしており、五十歳を過ぎているというのに、後ろに軽く撫でつけた髪は黒く豊かだ。母とは一回り程歳が離れ、三十代後半で駿と雛をもった彼は、他の友人たちの父親像と比べるとかなり厳格な印象を持つ。
「どうかしたかな、雛」
「え――」
 教育者であった勘が働いたのか、彼はすぐに雛のそわそわした態度に気が付いた。
「僕に何か話したそうだったから。勉強でわからないことでもあるのかな?」
「ううん……そうじゃないけど、」
 父は優しい。教育庁に仕える仕事柄考えに厳しく、融通が利かないことも多々あるが、それでも雛や駿に気を遣ってくれているのが手に取るようにわかる。だから今のように、こちらのささいな変化なども簡単に見抜いてしまうのだろう。
 話してみようと思った。自分の気持ちを丁寧に説明すれば、頭ごなしに否定的な対応は絶対にしないはずだ――たとえ、FMのことが嫌いであっても。
 しかし、斜め向かいに座った母が父との会話を遮断した。
「そういえば雛、先週の実力テストは却って来たのかしら」
 完全に頭から抜けていたことを指摘され、雛は心臓が裏返る程ぎくりとする。翔に連れられて初めてFMに乗った日、その日中にあった実力テストのことである。試験以降にあった出来事が目まぐるしかったせいで、単純に記憶から飛んでいた。
「まだ、だけど」
「手応えはどうだったの? 定期テストじゃないとはいえ、手を抜いていたわけじゃないでしょう」
 母の険のある口調に、試験が胸を張って言える出来でなかったことを思い出した。下準備はいつもどおりしていたつもりなのに、普通なら解けるはずの部分で躓き、応用問題では予想外に引っかかった。結果を見るまでも無く、ここ最近で一番冴えない点数であることは確かだ。それでも雛は精一杯の見栄と保険を張り、誰しもに言い尽くされているだろう最も無難な答えを述べる。
「……まあまあ、かな」
「まあまあって。雛、貴女前日も遅くまで勉強していたんでしょう? それとも、やっぱり体調不良だったなんて言うの? もう高等部に入ったのだから、自分のことは自分で管理しなさい。しっかりして貰わないと困るって、何度言えば良いのかしら」
 母はあくまでも無表情だが、口調には呆れの色がはっきりと表れている。返答にふさわしい言葉が見つからず、雛はいつもどおり反論の意さえも示せず黙り込みかけ――やめた。
「――私、」
 独り言のように呟く。それは小さく掠れた声だったが、兄も父も母も、台所にいた神林さえもが手を止めて雛を見た。大人しくあまり自己主張をしない彼女が、初めて両親に対して何か意見を言おうとしているのだ。
「……私じゃなきゃ、だめなの?」
 それでも雛が抱える気持ちは、この数秒間で処理できるほどのものではなかった。駿の奏でるピアノの音や、瑠夏が乗るFMの軌道をどれほどイメージしたとしても、未熟なままの今の雛には、自分の気持ちさえも上手く言葉にしきれない。
「どういうこと?」
「……勉強して、大学でも頑張って、お父さんと同じ仕事をして……私ばっかり、そんなこと言われなきゃいけないの?」
「何を今更……貴女しかいないじゃない」
 母は怪訝そうに眉をしかめ、同時に隣の駿が身を固くして俯くのが見えた。それは自分を挟んで紛争が勃発した居心地の悪さからというより、自己嫌悪が渦巻いたもっと深刻なものだ。だが突然の雛の反抗に気が立っている母は、彼の変化には気を留めない。駿がその才能をもって著名なピアニストになり、この市を牽引する存在になる――そして彼自身もそう思っていると、昔も今も頑なに信じているのだ。
 兄のような才能が無い分、せめて家の体裁を守れ。何もなければ我慢しろ。雛に向けられた母の目は、物心ついた時からそう言い聞かせ続けている。
「思っていたのだけど、雛……貴女夏休み中から少し変よ。私に黙って、変な友達でも作ったんじゃないでしょうね」
「そんなこと――!!」
「エリサ、やめなさい。それは筋違いだ」
 初めて声を荒げた雛に被さって、父が珍しく母を叱った。優しい目がこちらを向き、ゆっくりと続ける。
「雛……何かやりたいことがあるなら言ってごらん。僕に出来ることがあれば、何でも言ってほしい」
「龍彦さん、貴方がそんなことを言ったら」
「良いんだ。僕や家のために、雛が我慢する必要はない。やりたいことをやればいい」
 見据えられて震えだした手をぎゅっと握る。唾を飲み込み、雛は掠れがちな声を振り絞った。父は優しい――それに、こちらのことを解ろうとしてくれている。
「……お父さん、私、」
 きっと大丈夫、だから言うのだ。決めたのだから。翔の隣に並ぶために、自分はこの壁を飛び越えるのだと。
「――FMマッチの、選手になりたい。ううん……なるの、私は」