Sparrow!!--#4:Pat(03)

「――わかった。……………………雛。俺のことも、呼び捨てにして良いから」
 やっとの思いで言葉にすると、彼女は今日になって初めてこちらに笑顔を見せた。頬には淡く紅が差し、形の良い目が眩しそうに細められる。
「ありがとう……翔」
 その響きの、なんと甘く瑞々しいことか。蕾が花開くようにほころんだ柔らかそうな唇は、触れたらきっと、この世界の何よりも心地が良いはずで――
「じゃあ、また明日ね」
 そう続けられ、翔は一瞬で我に返った。同時に、制服にかかった雨水が全て蒸発するのではないかというほど体中が火照る。あまりに場違いでふしだらな連想に絶句している間に、雛は鳥籠から放たれるが如く傘の下から走り出ていった。
 雨音が再び鼓膜に舞い戻り、彼女の足音に合わせてブルーグレーのスカートの裾が翻る。気付くと校門の影に、一台の白い車が待機していた。運転席は影になっていてわからないが、後部座席に一学年上の彼女の兄が乗っているのが見える。
 彼の隣に雛が乗り込むのを待ち、車は路上の水を弾く音だけを残して走り去っていった。しかし翔の視界には、彼女が去り際に残した笑顔の記憶だけがまだ残っている。
「……何考えてるんだよ、俺」
 雨音に掻き消えそうな声で一人呟き、翔は道の向こうに消えていく車のテールランプを眺めた。


 ノクターンが聞こえる。
 リビングで兄の駿がピアノを弾いているのだ。あまりにも有名なショパンの調べは、彼が幼いころから得意としている曲の一つだった。着替えてベッドに身を投げ出し、ただぼんやりと白い天井を見上げる雛の鼓膜に、その繊細な音の一つ一つがふわりふわりと降り積もってゆく。雨音はショパンの調べとはよく言ったもので、相変わらず続いている力強い雨のリズムが、か弱いピアノの音の手を取るように抒情的に絡み合っていた。
 無垢さと危うさが絡み合った旋律。何千回何万回と聞いてきた、囁くように甘い音色。数多あるピアノの独奏曲の中でも一番好きな、だが同時に、雛にとっては苦々しい思いもある曲だ。
 両親に連れられて行った初めてのピアノコンサートでこの曲を耳にし、一瞬で虜になってしまった。自分も弾いてみたいと幼心にも憧れ、すぐにピアノを習いたいと駄々をこねたあの頃。けれど、憧れだけでは夢を叶えることはできない。何度練習を繰り返しても、雛は思い通りにこの曲を弾くことができなかった。気が付くと、自分よりも後からピアノを始めた兄の方が、客観的に見ても明らかなほど雛よりも早く上達していたのだ。
 すごいわ、駿は天才ね。プロにだってなれるわ。雛のことはほとんど褒めなかった母が、そう言って兄を讃えていたことを思い出す。
 寝返りを打ち、雛はぎゅっと目を瞑った。大好きな曲なのに、耳にする度に惨めな気持ちが蘇る。しかし、才能があるが故の競争の世界にいる兄を、自分の妬み嫉みだけで嫌うつもりはない。夜中に寝ないで指使いの練習をしていたり、指が震えて物が持てなくなるまで弾き続けたりすることがざらにある兄。母や他の者にどれだけ褒められても、彼にはそれだけのプレッシャーがのしかかってきているのだ。もし自分に同等のピアノの技術があっても、それを跳ね除けるほどの精神力はきっと無いだろうと素直に思う。
 だからこそ、この差に辟易してしまうのだ。自分はピアノの前を居場所にしたかった。しかしこの兄との差をわかってしまったから、自分は何も言わずに身を引いた。そんなこちらの気持ちを知らず――ただ雛が気に入っているからというだけの理由で、ノクターンを弾き続ける兄を残して。
 自分の居場所は、ピアノの前ではなかったのだ。本当の居場所は、
――雛。
 先ほど聞いたばかりの、心地の良い翔の声が脳裏に蘇った。下腹部の奥が疼き、熱くとろりとした蜜のような何かが溢れる感覚が、体中に広がっていく。
 思い切って言い出してみて良かった。あんな風に他人に自分の呼び方を提案したのは、十六年間生きてきた中でも初めてのことだ。
 真っ白になった視界の中で名前を呼ばれ、夢中で手を伸ばすと、気が付けば彼の腕の中にいた昨日のことを思い出す。ヘルメットを剥ぎ取られて彼の顔を見た瞬間の安堵は、それまで積もらせていた不安や怯えを魔法のように一瞬にして消し――それは同時に、ここが本当の自分の居場所なんだという確信も芽生えさせた。
 彼が手を引いて連れて来てくれたのだ。諦めに塞がれた何もない場所から、この場所まで。
 だから、今度は自分から彼の方へ行かなければならない。一歩前に立って先導してもらうのではなく、隣に並んで歩くために。
 瞳を開けると、兄の演奏は既に聞こえなくなっていた。考えすぎて意識も半分閉じてしまっていたのだろうか。夢うつつのまま半身を起すと、それを待ちわびていたようにドアが控えめにノックされた。
 神林だろうか。しかし、いつもより少し早い。両親もまだ帰宅していないし、変わらず振り続けている雨のせいで外は暗いままだが、夕食の時間にはなっていないはずだ。
「雛、ちょっと来て」
 けれど予想に反し、外から聞こえてきた声は兄のものだった。家にいる時にしては珍しく、少し急かすような上ずった口調だ。
「何?」
「良いから、早く来て」
 ドアを開けると、怪我防止の白い手袋を嵌めた手がこちらの手首を掴んだ。大きくて男っぽい翔のそれとは全く違う、女性的なか細い感じの手のひらだ。部屋の照明を消すのもそぞろにリビングに連れられて行くと、付けっぱなしの3Dテレビに見覚えのある人物が映っているのが見えた。