Sparrow!!--#4:Pat(02)

 試運転を含めた審査が全て通ったと国枝から伝えられたのは、昨日の夕方、雛と二人で海峰園を後にする直前だった。シャワーを借りてすっきりと朝の姿に戻っていた雛は、その報告を聞いてすぐにぱっと表情を輝かせていた。
 しかし、勿論操縦士の登録はそれだけでは成立しない。公式な選手として登録されるには、数回に渡って行われる乗り方の基礎講習を履修し、そして未成年の場合、保護者による選手登録承諾書へのサインが必要となる。
 事故や怪我が付いて回るFMマッチの操縦士だ。当然と言えば当然のとこだが、黎二のように前から操縦士を目指して来ていた者には造作も無い障害だ。両親の理解を得た上で、それを目指しているパターンが多いのだから――しかし、雛は違う。ほんの先日決断し、そのまま説明もろくにせずに審査に連れて来た。雛の両親がFMを嫌っていることなど、最初に話した時から知っていたはずなのに、完全に失念してしまっていたのだ。
 国枝からそれを聞かされた時の、ゆっくりと笑みを消していく雛の表情を思い出す。雨で流れ落ちるみたいに、すっと。帰路に着いても彼女はそのことには触れもしなかったが、あれだけ色々なことがあった昨日一日の中で、その表情だけが翔の心に染みを残した。
 昇降口に付くと、帰り支度をするまばらな他の生徒に混ざり、庇の下で雨空を見ている雛の後姿があった。傘は持っていない。こちらを待っているというよりも、立ち往生しているという雰囲気で自分自身をカモフラージュしているようにも見える。こっそりと近付いて目の前に自分のビニール傘を差しだしてやると、ぱっちりと開かれた形の良い目がこちらを見やった。
「あっ、橘川」
「傘、持ってないんだろ?」
「うん。……でも、大丈夫だよ。迎えももうすぐ来るし、校門までの我慢だから。そんなことより、話があるんだけど、」
 雛の言葉を遮って、翔はぱっと傘を広げた。ぽかんとしてこちらを見つめる彼女の頭上に傘を掲げ、庇から出ても雨に濡れないようにする。
「歩きながら話そう。濡れるよりマシだから」
 少しだけ顔を赤くし、雛はうんと小さく頷いた。昇降口の階段を下りて校門へと向かう、その彼女らしいぎこちない歩調を隣でなぞりながら、翔は傘の表面で音を立てて弾ける雨粒をふと見上げる。傘の作る不完全な弧の上を這い、滴り落ちてくる雫たち。教室から見た雨が檻ならば、この雨粒はまるで鳥籠だ――そう思わせるほどに、直線的で閉鎖的な雨だ。
「昨日が嘘みたいだね。私、午後から降るなんて知らなかった」
「ああ、まあ、俺もこれ置き傘だから」
 いくら見上げたって、青い空などどこにも無い。代わりに彼女の横顔に目をやると、花弁のように上向きに伸びた睫毛にどきりとした。それがゆっくりと憂鬱そうに伏せられ、雨音に紛れそうな声でぽつりと呟く。
「大丈夫だった? 昨日、思いっきり背中打ってたでしょ。痣になってるんじゃない?」
「あれくらい平気。そっちこそ、どこも痛くないのか?」
「私も平気。だって、橘川が守ってくれたから……」
 そこまで言って、雛はまた恥ずかしそうに下を向いた。夏服の袖から伸びた互いの腕がそっと触れ合い、そこだけにちりりと電流が走ったように錯覚する。隣から見つめる彼女の雰囲気が昨日と違って見えるのは、青空の下ではないからだろうか。
「あのね、それで、話っていうのは、」
「許可が下りないかもしれない、とか?」
 その通りだったらしい。何故わかったのかと目を見開いて、彼女はこちらを振り返った。
「最初から、親がFMのこと嫌いって言ってたもんな。ごめん、俺、自分の事ばっかり考えてて」
 彼女の家のことを考えず話を進めた――他でもない、これは自分の落ち度だと翔は思う。いくら平静を保って接していたと言っても、彼女が操縦士になることに浮き足立っていたのは否めないのだ。しかし、雛は左右で結われた髪をふるふると横に揺らせた。
「違うの。私、正直ね、家族の事わかってて考えないようにしてたの、昨日。だから橘川は悪くなくて……そんなこと思わないで。それに、選手になるって私が決めたことだし。自分で何とかする。ただ、承諾書出すのが遅くなっちゃうかもしれないから、それだけ言っとこうと思ったの」
 心もち口調を強くして言い切ると、雛はまた恥じ入ったように正面へと視線を戻した。胸の前で両手の指を絡ませ、続ける。
「あ、あとね。それとは関係ないことなんだけど……橘川、昨日一回だけ私のこと名前で呼んでくれたじゃない? 雛って」
 思考が一拍停止した。昨日、もといあの事故の瞬間はあまりにも無我夢中で、自分が言ったことの大半を覚えていないのだ。言ったような言っていないようなもどかしさを感じながら、そんな重大なことを、無意識のうちにしていた昨日の自分を呪う。
「……そうだっけ」
「うん。それがね……凄く、嬉しかったの。だから、呼んでほしいなって思って。名字で呼ぶの、面倒でしょう? ……駄目かな」
 いつの間にか校門のすぐ傍まで来ていた。自然に足を止め、雛は少し上目づかい気味にこちらの目を見、すぐに伏せ、けれども両手は願い事をするように握りしめている。期待よりも照れと不安の方が大きいようなその仕草は、彼女が他人に甘え慣れていないことを示しているふうにも見えた。
 心臓がぎゅっと収縮し、雨の音は遠ざかり、声の出し方さえも忘れるほどの緊張が翔の体中に沸き上がる。