Sparrow!!--#3:Dive(15)

「――……た、ちか……」
『そう……汐野さんから借りて話をしてる。でも無理に喋らなくていい。とにかく、よく聞いて。その機体は最初から故障してたんだ。今止めるための準備をしてるから、俺の言う通りにして欲しい』
 雛は疲労のあまり散り散りになっていた集中力を死に物狂いでかき集める。彼の声を聞きとることは、海中で糸を掴むほど容易でないことだった。それでも雛は耳を澄まし、彼の言葉の続きを待つ。しかし、その言葉は思っても見ない事柄だった。
『西側……ディスプレイの向かいになる方角に、これから非常事態用のクッションを出してもらう。自動操縦を解除するから、宝生はそこまでその機体を操縦してほしい』
 雛は息を飲んだ。自分にこの故障機を動かせるとは、どうしても思えない。
「でき、ないよ」
『そんなことない。俺が誘導するから、その通りに飛んで』
「でも、」
『宝生』
「だって……私、まだ」
『大丈夫。俺が絶対に助けるから、こんなの簡単だって思い込むんだ。だから無事に帰って、一緒にチャンピオンになろう』
 唸り続けるノイズの中で、彼のその声だけが、闇を貫く光のようにはっきりと耳に届いた。
 そうだ。自分はチャンピオンになるのだ。翔と。だからこんなことで弱音なんて吐いてはいけない。経験値の無さを理由に閉じこもってしまったら、何をしても詰まらなかった昔の自分と全く同じなままになってしまう。
「……うん」
 頷いて、雛はヘルメット越しに深く息を吸い込んだ。目をいっぱいに開いて前を見る。ハンドルを掴む両手を包み込むように握りしめる、彼の手のひらの気配を感じた。
『――宝生、今の体制から少し起きられるか?』
「やっ、てみる」
 言われたとおり、機体にしがみつけていた上体を少しずつ起こそうと腕に力を込めたが、再び機体が急な揺れを起こす。
「あっ……!」
『気を付けて。ゆっくりでいいから……シートをしっかり挟んで……そう。これから速度が落とせないかを試してみる。上手くいったら自動操縦を切るから、そのつもりでいて』
「うん――」
 返事をするや否や、機体の前方がじわじわと上がり始めた。
「わ、た、橘川――」
『傾くのは怖いかもしれないけど、落ちることは無いから。これから減速していく』
 慌てて声を上げた雛に、翔がこうなることを見越した口調で返した。彼の言うとおり、前のめり気味だった機体が徐々に平行さを取り戻していき、雛の体制にも少しずつ負担が無くなってくる。翔はノイズの向こうで他の人物、恐らく国枝と短く何かを言い合う気配がし、再び慎重にこちらに尋ねる。
『宝生、自動操縦を解除する……いいか?』
「――うん……大丈夫、して」
 不安など不思議となくなっており――雛がはっきりとそう言った一瞬後、明らかにFMの様子が変わった。
 突き上げられるような振動や不安定さは変わらない。けれどこれまで感じていた手に負えない獣のような獰猛さは息を潜め、それはあたかも、自分の一部になってしまったかのように重さを感じなくなっていた。
『今、自動操縦を切った』
 ヘルメットに繋がれた無線から、翔の声が聞こえてきた。
「……凄い、ちょっと……軽くなったよ」
『ああ。そのまま、少しずつ右にハンドルを傾けていって』
 言われるままに傾けると、機体はこちらの意の通りに緩やかな弧を描いた。その自分自身の羽のようにストレスを感じない手ごたえに、雛は目を見開く。審査が始まって機体が故障するまでの間も十分すぎるほどの解放感を覚えていたが、この感覚はあの時とは比べ物にならないほどの自由を感じた。
 自由。自分は今、本当の意味でFMに乗っているのだ。初めて試合を見た時の記憶が、望月瑠夏に抱いた憧れが、翔の背にしがみついて見た美しい景色が、今視界に広がる青色に全て繋がっていく。しかし、そんな感慨に浸る間もなく翔が続けた。
『――今度は、機体を前に傾けてほしい。焦ると体勢を崩すから、ゆっくりな――そう……スタンドは見えるか?』
「……うん、見える」
 ヘルメットのせいで視野は普通よりも幾分か狭いが、それでもスタジアム内の様子は見て取れた。もとい、見る余裕が戻ってきたと言うべきか。先ほど翔が言っていた通り、ディスプレイの丁度反対にあたる位置、そのスタンドからグラウンドにかけての範囲に、大きくて分厚いマットのようなものが敷かれつつあった。
「あそこ?」
『うん……ただ、今のスピードでは一気に行けない。少しずつ高度を下げていくんだ』
 翔の助言は的確で、まだ空中でバランスを保てない雛の手を取るように誘導していく。それはまるでダンスを踊っているようで、体温や鼓動までもが電波と風を越えて繋がっている気さえする。少し前まで心を埋め尽くしていた絶望はいつの間にか影を潜め、グラウンドでこちらの様子を伺う汐野や他の職員、また異変に気づいてスタンドに引き返してきた観客たちの姿までも見下ろせるほどに気分が回復した。