Sparrow!!--#3:Dive(14)

「国枝さん、フロートエンジンをもっと上げられますか?」
 FMの動力は、浮遊を司るフロートエンジンと加速を司るランニングエンジンから成り立っている。この縦方向と横方向のエンジンの威力を組み合わせ、FMは競技で使うような滑らかな動きを見せる。前者が高ければふわりとした飛行になり――例えば先日雛を乗せて浮遊した時などは、フロートエンジンしか作動させていなかった――逆に、後者が高ければぐんとスピードを上げたプレーもできる。今の状態から雛をいち早く救うには、このフロートエンジンでランニングエンジンの威力を相殺させ、減速を図るしかない。
 ディスプレイと雛を交互に見ていた国枝が、翔の突然の申し出に少しだけ困惑した表情になる。
「あの故障の原因はランニングエンジンの冷却装置だ。熱を放出できずにパンクして、その連鎖で制御回路も逝ってる状態だ。今フロートを無闇に上げると、機体自体が熱に耐えられなくなるかもしれん。上手く減速させられるかは一か八かってとこだ」
「一か八かでも――減速させてくれませんか」
「何を考えてる、翔……確かにあの子を助けるには減速が一番良い方法だ。だがまた発火する可能性だってあるぞ。その場合のことを考えてるか?」
「……宝生の整備士は俺です。何かあったら、責任は取ります」
「アホか! 免許持ってるっつったって、お前まだ高校生だろ。試合の経験だってまだ無い。この状況で、責任が何かもわかってないくせに、かっこつけたこと言うんじゃない!」
 国枝が口調を荒げてこちらをねめつけた。幼いころから世話になっているが、彼に怒鳴られたのは初めてのことだ――が、翔は唇を噛みしめてその視線を受けた。やがて国枝は諦めたようにふっと息を付き、
「で、どうするんだ? 減速させても、止められなきゃ意味が無い」
「何か、あの機体を受け止められるような装置はあれば……」
「緊急用のクッションならあるが――そうか」
 翔の言を先回りしたのか、国枝はディスプレイに寄越しかけていた視線をこちらに戻した。
「最低限の衝撃で受け止めるってことか……でも、たとえ減速の方が上手くできたとしても、経験値ゼロの状態じゃ難しい」
「減速し始めたら、自動操縦を解除してください。俺が宝生を誘導します」
「……わかった。そのかわり、おかしな状態になったらすぐに別の対処をする。どっちにしろこっちの過失なんだ。あの子の整備士だろうとなかろうと、お前に責任がどうとか求めてないんだよ」
「有難うございます」
 翔が頭を下げると、国枝は軽くため息をつき、
「ったく、似なくても良いとこだけあいつに似やがって」
 そうぼやきながら、彼は周りの職員達に指示を回しはじめた。クッションの準備へ回る汐野から受け取ったインカムをとりつけ、翔は空を見上げる。
 深呼吸してイメージする。彼女の小さい手を包むように握りしめ、同じ風の中にいることを。耳を澄ませば、唸るノイズの嵐の中から、彼女の小さな呼吸のリズムを探す。集中を切らさないように注意しながら、五感の全てを彼女に捧げ――翔は掠れた声で囁いた。


 何これ、何これ、何これ――
 突然気性を荒げた機体に、雛は困惑と恐怖で何もわからなくなっていた。音も揺れも、先ほどとは比べ物にならないほど大きくなっている。
 解放感や高揚感はとうの昔に吹っ飛ばされてしまった。機体に振られ過ぎた腕が抜けそうに鈍い痛みを訴え、乗った当初には感じなかった不快感が腹の奥から込み上げてくるようだった。がなりたてる機体の壊れる音と雑音に混ざり、幾度か汐野がこちらを呼ぶ声が聞こえたが、舌を噛みそうで返事ができない内に掻き消えてしまった。目を開けていることさえも怖く、瞼の間から零れる涙の感触が気持ち悪い。
 機体の揺れからくる反動に運よく乗り、雛は上半身全体を機体にしがみつかせることができた。体制が固定されたことで身体への負担は大きく減ったが、それでも恐怖が収まることは無い。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう――これも審査の一環なのだろうか――自分が素人だから、機体が壊れてしまったのか――これからどうなってしまうのか――機体の動きと合わせ、雛の思考も二転三転を繰り返す。
 体中ががくがくと震えた。血が凍りついているかのように、自分自身の体温を感じない。黎二の言葉が脳裏をよぎる。死ぬような目に遭っても続けられるって言えるのか?
――死ぬ。私はこのまま死ぬのかもしれないと、雛は生まれて初めてそう思った。耐え切れず長く閉じていた目を開けると、そこには恐ろしいほど深い空が視界いっぱいを覆っていた。雲一つなく、太陽の位置もわからない。ただただ青く無表情なその空間は、こちらを押し潰すが如く迫りくる。数日前に翔と見た夕焼け空とは、全く違うもののように。
 翔。
 雛は声に出さずに呟いた。別れてからそれほど時間が経ってないはずなのに、顔を見たのも、声を聞いたのも、もう何年も前のことのような気がする。
 初めて会話した時から彼との全てのことが、まさしく走馬灯のように脳裏に浮かんでは消えていく。中性的な顔立ちとは打って変わった大人びた横顔、体格とアンバランスな大きな手のひら。見た目のイメージよりも低めの声と、表情を出すことに慣れていないぎこちない照れ笑い。
 どこにいるの? 
 会いたい。たすけて。
 また手を引いて――
 その時、一度途絶えていた無線が微かに息を吹き返した。
 心の底から望んでいた低く甘い声が、ノイズの間を縫うように雛の鼓膜に触れる。
『――……う……――……しょう。宝生。……聞こえるか?』
 それは音としてはとても小さく、体勢を安定させていなければ聞き逃していたかもしれない。しかし、今の雛にはこれが奇跡以外の何物でもなかった。
 涙が更に零れた。冷え切っていた体中の血が熱く廻りはじめ、恐怖とはまた別の震えが胸の底から湧きあがる。込み上げる全てのものを振り絞り、雛は息を詰まらせながらも彼の名を呼ぼうとした。