Sparrow!!--#3:Dive(09)

 それでなくても、彼女が傍にいると自分は毎回少しだけおかしくなる自覚はある。訳も無く触れたくなったり、けれどもそれが怖くなったり、本来なら絶対に言わないようなことを口にしたり、反対に、言葉が何も出てこなくなったり。意識して作っていないと、普段の自分を忘れてしまいそうになるのだ。腹の下あたり、その奥深い部分が何となく熱い。それに、胸の血管がきゅっと縮まっているような感覚。彼女が遠ざかることで凪ぐように引いていく疼きに、居心地の悪さと安堵のような気持ちを同時に感じる。
 と、その炭酸水のように甘酸っぱい余韻は、今一番聞きたくなかった声に突然遮断された。
「かーけーる! やっと見つけた!」
 聞き慣れ過ぎている通りの良いハイバリトン。恨めしい気分で振り向くと、颯介がいつもの微笑をニヤニヤ浮かべて立っていた。
「……帰ったんじゃなかったの」
「黎二だけね。俺は帰るわけないじゃん。ホムラの撤収もあるし、ライバルの偵察も整備士の役目だし」
 言いながら、彼は翔の隣まで来て腰を下ろした。因みにホムラというのは、黎二が乗り颯介が整備しているFMの名である。名前の通り、燃えるような真紅の大型機体だ。
「雛ちゃんは審査中? あはは、ほんとに受けてんだね。凄い凄い」
 またしても小馬鹿にしたような物言いに、翔は少なからずむっとした。
「何、その言い方」
「や、だって全くの初心者でしょ? 雛ちゃん。星望杯(せいぼうはい)のことも知らなかったんだからさ。翔もこの前免許取ったばっかなのに、よく操縦士にする気になったなーって思って」
 星望杯とは、FM本戦の最終グランプリ――つまり秋大会の別名だ。雛が最初に見た夏大会は、春大会で振るいにかけた選手を更に絞り込み、この星望杯に出る選手を決める言わば予選の決勝なのである。この一連の大会は星馬重工が主催しているが、星望杯のみ他の地区や大会から進出された選手も出場できる。競技シーズンの最後を飾り、一番の規模とレベルを誇る大会だ。
「初心者が試合に出れるようになるまで、だいぶ時間が掛かるよ。整備士がベテランだったらまだ違っただろうけど、ましてや翔だし。黎二みたいに頭っから否定する気はないけどさ、ちょっと背伸びしすぎじゃない?」
 軽い見た目の割に、颯介は昔からこうやってさらりと正論を言う奴だった。容姿も頭も良く背も高いこの二つ年上の幼馴染は、恋人をころころ変える所くらいしか欠点が見当たらない。しかし正直を言うと、翔はそんな颯介が黎二の倍ほどに苦手だった。それに、同じ整備士同士だ。翔が整備士試験の際に颯介を意識してなかったと言えば大きな嘘になるが、そんなことは生まれ変わったって口には出すまい。
 小さい頃から、黎二は免許を取ったらすぐに操縦士として試合に出るんだとトレーニングに明け暮れていたし、颯介もそれに応えるように祖父の元に通って整備士の勉強をしていた。二人が選手になるために努力していたことは翔だってよく知っている。だからこそ、雛に対する二人の反応だって容易に想像できた。
 なじられることだって予想していたし、それでも黙ってやりすごそうと思っていた。だから普段物静かな雛があんな風に振る舞ったことは、衝撃的なことだった。
「……わかってるよ、そのくらい」
「ほんとに? 俺が言ってるのは、雛ちゃんに経験があるかどうかより、翔にフォローしきれるのかってことなんだけど」
 反射的に颯介の方を見た。しかし彼は翔には一目も触れない。熾烈な試合途中の空を見ながら、独り言のような軽さで続ける。
「いくら免許を持ってても、翔だってまだ初心者でしょ。実戦とまではいかなくても、トレーニング経験のある操縦士を探した方が良いと思うな。好きだからってだけで決めてたらほんとにままごとじゃん。それか、手を抜いてなぁなぁで続けるつもり? 前にチャンピオンになるとか言ってたよね。いつなるつもりか知んないけど、そんな考えじゃ一生無理かもしれないよ」
「そんなこと……!!」
 先ほどの雛のように、翔は思わず立ち上がっていた。颯介の形の良い目がこちらを見上げ、張り付いていた薄い笑みが一瞬だけ真顔に消えた。
『――本日第十二試合目を終了いたします。第十三試合目はこれより十分間の休憩を置きまして――』
 再び絶妙なタイミングで準戦独特の事務的なアナウンスが響き渡り、二人も含めて張り詰めていたスタジアムの空気が一斉に緩和される。
「ほら、休憩だってさ。座んなよ」
 柔和な表情を取り戻して苦笑しながら、颯介は手を振って翔を促した。憤りの矛先を放つタイミングを失って居心地の悪さしか感じなかったが、翔は唇を噛んでそれに従う。ここで逃げてしまうと、言われたことをそのまま認めているようなものだった。