Sparrow!!--#3:Dive(01)

「雛、どこ行くの? まだお昼前なのに」
 背後から掛けられた言葉にぎくりとして、雛はドアノブを手に取ったまま振り返った。
「――ど、どこでもいいでしょ」
 父母は仕事の所用で出かけ、神林は夕食の買い出しへと赴いている。誰にも会わずに家を抜け出すチャンス――そう思ってこっそりと部屋を抜け出したのに、とんだ伏兵がいたものだ。ピアノの譜面を抱えて雛を呼び止めた駿は、日曜日にしては珍しくコンクールやレッスンの予定が入っていないらしく、相変わらずののんびりとした口調で続けた。
「そうだけどさ。そんなに可愛い格好してたら気になっちゃうよ」
 まじまじとこちらを見つめてくる兄の視線を辿って、雛は自分の服を見下ろす。空色の生地とレースが基調のワンピースに、つやつやのトップコートをほどこしたピンク色の爪。足元は真珠のような色合いのパンプスだ。
「さてはデートだね。橘川君と?」
「そ、そんなんじゃないってば!!」
 思わず声を上げると、兄は実に楽しそうに「あははは」とお腹を抱えて笑い出した。それは母の居る前では絶対に出ない類のもので、そのあまりのバカ笑いっぷりに、憤慨で上気していた雛は一気に脱力する。全く、何がそんなにツボに入ったのやら。
「ちょっと、笑い過ぎでしょ」
「だって雛、顔真っ赤なんだもん。図星だった?」
「……お兄ちゃんには関係無いでしょ。もう時間無いから行くよ」
「うん、気を付けて。橘川君によろしくね」
 涙さえ浮かべて手を振る兄を最後に軽く睨みつけ、けれども少し浮ついた足取りで、雛は家の外へと飛び出す。空は穏やかに晴れており、風はまだまだ暖かい。徒歩で五分ほど先の最寄り駅を目指しながら、雛はつい先日交わした彼との会話を思い出していた。
――私を操縦士にして。
 あのタイミングだからこそ出たような言葉だった。視界いっぱいに広がる夕焼け空も、風の匂いや音も、彼の体温も全てはっきりと感覚が残っていて、脳裏に浮かべるだけで気恥ずかしさに胸が焼けるほど苦しくなる。しかし、あの言葉を発した途端、生まれ変わったかのように見るもの全ての色が変わった。自分自身の声が天啓のように降り注ぐ。五感は新しい世界を瑞々しく内側に伝える。細胞の一つ一つが歌いだす。走り出したいような、遠くまで飛んでいきたいような、激しく眩しい衝動。
 彼に言われたとおり、声に出してみて初めて気が付いたのだ。夏からずっと抱え続けていた、もやもやとした感情の正体はこれだったのだと、あれから数日が経ち頭の冷えた今でもそう強く思う。この気持ちは、本物なのだと。
 道なりのショーウィンドウに自分の姿を映し、雛は今日の自分の格好を再度確認した。頬の横にふわりと垂れる髪を弄りながら、誰に問うでもなく呟く。
「でも確かに、我ながらお洒落しすぎたかも……」
 普段ツインテールに結っている髪は綺麗に編み込んでアップにし、グロスを湛えた唇と、機嫌良く上向きにカールする睫毛。頬と目元には淡いピンクを乗せている。休日だと言っても、ここまで凝るのは正直言って初めてかもしれない。ラフにしようとは思っていたのだけれど、鏡に向かう度ああでもないこうでもないと弄っては、結局このような形になってしまった。冷静になればなるほど、ちょっと引かれはしないかという危惧が芽生え始める。しかし今更家に戻るわけにはいかず、雛はぶるぶると首を振って気を奮い立たせた。
――わかった。じゃあ、一緒に来てほしい所があるんだけど。
 雛の申し出に対し少しの間考えた後、翔は慎重にそう言い置いた。それが、今から雛が向かっている場所である。
 駅の昇降口に着き、券売機に携帯端末を翳して電子切符をダウンロードする。一昔前の切符は紙でできており、紛失や不正が頻発していたと聞いたことがあるが、雛の世代にとっては想像もつかない話だ。切符を買うのも改札を通るのも流れるような行程で、電車に乗るために人が列を作ったり混雑している様など、今時どこの駅へ行っても見当たらない。
 ダウンロードした切符が、翔から指定された『海峰園(かいほうえん)駅』行きであることを再度確認し、雛は丁度来たばかりの電車へ乗り込んだ。日曜日だというのに乗客は多く、駅を一つ経る度に、高架の上から見下ろす街はゆっくりと変化する。遠くには深い青をした海、それと同じ色の天馬マリンドームの屋根が少しだけ覗く。鋼鉄の木々のように立ち並ぶビル群に、花壇で囲まれた広い公園、数え切れない住宅、その奥に顔を出す、星馬重工のシンボルでもある球型の研究施設たち。
 電車が目的地のホームに滑り込むと同時に動きだし、雛は足早に降り立った。星馬重工とも近いということもあり、休日だというのに、スーツや作業着で歩いている姿が多く目に付く。改札の先を注意深く見回すと、さざ波のような人々の向こう、隅っこに佇む翔の横顔が見えた。
「橘川!」
 駆けつける間に呼ぶと、あの賢そうな目が引き寄せるようにこちらを捉える。
「ごめん。待った?」
「いや、今来たとこだけど……」
 そう応えながら、翔はこちらの格好を見て少し驚いたように目を瞬かせた。しまった、やっぱり着飾りすぎていたか――と、浮ついていた気持ちが急速に降下していくのを感じる。彼はというと、無骨なカーゴパンツに黒のTシャツ、作業上着という出で立ちで、今の自分と並ぶとどう考えたってアンバランスだ。が、もう手に負えることではない。雛は気分の凹みを押し隠し、何でもないような笑みを繕う。