Sparrow!!--#2:Froat(06)

「わぁっ!」
 雛の口から、感嘆と驚愕の声が漏れた。スピード自体は速くはない。それなのに、エレベーターで味わう程度の上昇感は瞬く間に追い越されてしまった。鉄の箱を通してではなく、生身で感じる気圧。体中が頭上の遥か彼方からストローで吸い上げられているような感覚。作業場の床は徐々に遠くなり、屋根が、町の家々が見る見るうちに足元に広がっていき、その高さに下半身の血の気が失せる。
 機体はいつの間にか減速し、飛行船のようにゆらゆらと浮遊した状態になっていた。高度に規制があると聞いたものの、眼下にあるほとんどの建物がミニチュアの模型のようになっている。自分が宙に浮いている、ということが信じられない。地に足がついていないだけで、こんなに気分まで不安定になるものかと驚く。
「下は見ない方が良い。――空を見て」
 耳元に聞こえた翔の囁きに促され、雛は視線を上空に向け、
「……凄い……!」
 それ以上の言葉にならない、見たことも無いほどの壮大な夕焼け空が、視界の遥か彼方まで広がっていた。
 夏の名残を思わせる厚い雲は、とろけるような夕日を生まれたばかりの赤子の如く抱く。東の空にはすでに夜の群青が忍び寄り、そこから高くなるにつれて淡い青、そして目の眩むようなオレンジへと三六〇度のグラデーションを織りなしていた。
「ほんと、綺麗……!」
 雛はうっとりと呟いた。この高さで見る雲は、地上で見た時とは立体感が格段に違う。視界の殆どが空なのだ。今までに見たどの夕日とも違って見えるのは、きっとこの角度のせいだろう。雲も太陽も、自分の目と同じ高さにあるように思える。手を伸ばせば触れられそうで、けれど同時に、その手は宙に弧を描いてしまうだろうことも予感する絶妙な距離感。視界の果ての果て、どこまでも遠く続く、永遠に終わらないような夕焼け――
 ぼんやりと空に見惚れていた雛は、体に伝わってくる温度に気付いて我に返った。いつの間にか、手を添えるだけで留まっていた翔の背中にぎゅっとしがみついていたのだ。彼のシャツの胸を両手で掴み、上半身全部を密着させていたことに激しく動揺したが、だからと言って体を離せるような状態ではない。
「と、というかっ、橘川、整備士になれたんだね。いつの間に免許取れてたの? 報告待ってたんだから」
 緊張を誤魔化すように、雛はわざと口を尖らせて言った。声は変に裏返っていたが、翔は気にすることも無くこくりと頷く。
「ただ免許見せるよりも、これに乗せる方が説得力あるかと思ったから。宝生が覚えてるかも自信なかったし。……覚えててくれて、安心したけど」
 最後だけ、こんな至近距離でなければ聞き取れないような囁きだった。
 当然だよ。そう声に出す代わりに、彼の体に回す手に少し力を込める。体がくっついていることへの動揺は潮騒のように静かに引き、代わりに、言いようのない熱く粘性の強い感情が込み上げてくる。
 肩にとんと額を置き、きつく目を閉じた。まるで、夕日の眩しさに目を眩ませたみたいに。
 当然だ。忘れるわけがない。「なれると良い」ではなく「なる」と言い切った強い口調も、その時のまっすぐな目も、ずっと雛の胸の底にこびりついているのに。
「おめでとう。良かった。一発で受かるとは思ってないって、あの時も言ってたもんね。高校生で受かるの、難しいことなんでしょ?」
「うん。だけど、あんまり実感無いな。まだ免許が手に入ったってだけだから」
「それでも凄いよ。私なんかとは、全然違う」
 雛が思わず付け足した言葉に、翔は首をかしげた。
「そんなことは無いだろ」
「ううん。だって私、得意なこととか頑張れることとか、そういうの全然無いから……勉強だって、親に言われてるからしてるだけ。進路だって決められてる。お兄ちゃんや橘川みたいに、才能あるのが羨ましい。私って何なんだろうっていつも思ってる。何をしてもつまんないし、ここにいるんだって実感も無いの。こんなのだから――なるんだ、なんて強い言葉、私には言えないよ」
 そう言いながら不意に零れた涙は、地上へは落ちず、翔の襟元に染み込んでいった。何故だろう。悲しいことも辛いことも何もない。むしろ彼の成功が喜ばしいこの瞬間に、何故自分はこんなにも、夕闇に道を外れた子供のような虚しい気持ちを滲ませているのだろう。
 遮るもののない強い風が吹き、生ぬるい涙の温度をいとも簡単に冷やしていく。家族にも親友にも、これまで零したことのないことだった。自分に対する不安が湧き上がり、抑えられずに、雛のか細い肩を震わせる。その声を聴きながら、翔はバランスを失わないように機体をゆっくりと揺らし、徐々に下降を続ける夕日をぎゅっと睨んでいる。