Sparrow!!--#2:Froat(04)

 両親はFMマッチのことをあまり好いていない。市議である父はそこまで言動に出さないが、母はほぼ毛嫌いと言ってもいい。人が乗った機械が空中でぶつかり合う野蛮なスポーツを喜んで見るなど、正気の沙汰と思えない、といったことを度々口にする。聖地であるこの市に住みながら、この歳まで試合を見せられなかったのが良い証拠だ。
 刷り込みとは恐ろしいものだと思う。いくら煩わしいと心で唱えていても、結局は母の顔色を伺ってしまう自分の思考に落胆した。つまり、自分は『雛』そのものなのだ。いくら外の世界に憧れたところで、自分の巣からは出られない。
 やっぱり帰ろう。そう決めて本を閉じたのと、久しぶりに聞くその声が耳に入ってきたのは殆ど同時だった。
「――見つけた」
 心臓が痛いくらいに跳ねた。反射的に振り向くと、他の誰でもない橘川翔がそこにいて、くっきりした大きな瞳にこちらの顔を映している。
「……って、別に、探してたわけじゃないんだ。たまたま外から見えて、宝生っぽいと思ったから――」
 翔は少し慌てたように歯切れ悪くそう言ったが、雛の耳には意味が入ってきていない。彼の方からこちらに話しかけて来たことと、それがあまりにも予想外だったことに動揺して、思考は完全に止まっている。
「その本」
 手元で閉じていた本を指されて、雛はようやく我に返った。
「あ、これっ、新刊で入ったみたい。橘川も見て。写真、すっごく綺麗だよ」
「うん、知ってる。俺も家に持ってるんだ」
 翔は何故か嬉しそうにそう応え、続ける。
「FMって、他のスポーツよりも写真や映像が撮りづらいんだ。動きが速いのと、高度もあるから。一秒間に百枚の連写でも使える写真が撮れてない場合もあるらしいし、縦の動きに間に合わない。ちょっと前まで出てた空中撮影用のヘリも、協会からクレームがついて廃止になったし。だから今では、試合中の一枚を撮るのにも相当な技術と根気がいる」
「へぇ。橘川、撮影にも詳しいんだね」
「……いや、それほどじゃない。今のはただの受け売り」
 照れ隠しなのか、嬉しそうだった表情をぱっと引っ込めて、彼は少しぶっきらぼうに言った。そして、本題はそれじゃないんだとでも言いたげに一呼吸おく。
 その二秒にも満たない一呼吸の間で、雛はたくさんの言葉を用意した。
 整備士試験のこと。
 今まで見てきた、FMマッチのこと。
 翔自身のこと。
 自分自身のこと。
 聞きたいことも話したいことも山のようにある。
 しかし、それでも、彼の言葉の続きを待った。
「宝生、これから時間ある? 見せたいものがあるんだ」


 学校から駅へと続く大通りから細い裏道へと離脱したのは、学校を出て間もなくのことだった。
 徒歩でなら、二十分くらいで着く――そう言われながら学校を出たのが、未だに一瞬前のことだったように思う。何も言わずに三歩前を歩く翔の歩調はこちらに気を使ってか少しゆっくりで、けれど雛は、それに並ぶことも後ろから話しかけることにも躊躇っている。彼と二人で歩くのはこれで二度目だが、あの日の方が、ずっとすらすらと話しかけられていたはずだ。
 学校裏。翔の背中を眺めながら、雛は同世代間でのこの道の通称を思い出していた。メインストリートをすぐに抜けてから、学校の裏手、地図上で言うと市の北側へぐるりと回るコースを辿っている。海央高校から北側は、合併前の古い街並みが多く残っており、星馬重工のある近代的な南側とは真逆な雰囲気を持つ。差別というほどではないが、南側で育った子供の多い海央の生徒には、北側を避けている者も少なくは無い。市議を父に持つ雛でさえも、こちらに足を踏み入れたことは殆ど無いのだ。
 一本道を変えるだけでも街の風景は驚くほどに変化し、道行く人々は極端に減り、色彩は奥に行けば行くほど褪せていく。メインストリートに溢れていたざわめきや音楽も、吸い込まれるように一瞬で遠のいた。色とりどりの建物と華やかな人々が行き交う駅前通りも、殆ど天馬市が革新してから造られたものばかりということを改めて気付かされる。
 舗装が行き届いてないでこぼこのアスファルト。何度も繰り返される曲がり角と、その角を超えるたびに増える、灰色のコンクリートや木造の建物。見上げれば錆びついた看板が目立ち、空を多角形に切り取るような電線が徐々に多くなる。人気のない中華料理屋から漂う、嗅ぎ慣れない脂の匂い。薄暗いリサイクルショップのショーウィンドウに飾られた、ジャンク品のくすんだサックス。乱雑に破られたまま風に揺れているポスターと、所々に捨てられた煙草の吸殻。母が見たら眉根を寄せそうな、汚れた野良猫が目の前を横切る。そのうち、何かの店先で一人ぽつんと壁の塗装を塗り替えていた青年が、翔に気づいて軽く手を上げた。
「翔! おい、何だ。彼女か?」
「そういうのじゃない」
「ほんとかぁ?」
「ほんとだって」
「へぇえ? まーでも、俺だけで良かったな。颯介(そうすけ)とかもいたら今頃大騒ぎだぞ」
「……考えたくない」
「はは、わかるわかる。それはそうと、週末暇なら手伝いに来てくれよ。日給弾むぜ」
「わかった。覚えとく」
 見知らぬ世界の住人と平然と言葉を交わしている彼は、やはり教室とは別人のようだ。青年は十ほど年上に見えるが、クラスメイトよりもずっと親しそうだ。彼と別れた後でも、翔の後姿はどんどんこの殺風景な風景に馴染んでいった。それは、自分との世界の違いをあらわしているようで、
「宝生って、電車で通ってるのか?」
「――え、」
 完全に不意打ちだったからか、一瞬、何を聞かれたのか分からなかった。
「ううん。……送り迎え」
 何故か、答えに躊躇いを覚えた。この風景の中を毎日歩いて行き来している翔に向かって、この答えを言うのはどことなく恥のように感じたからだ。
 それは子供の行き帰りを心配する両親や、毎朝車を出してくれる神林に対してでは決してない。ただ、今までずっとメインストリートの華やかさしか眺めてこなかった、この風景を全く知らなかった自分に対しての恥だ。
「でも、たまに帰りだけは電車の時があるの。今日みたいに、終わる時間がお兄ちゃんと違う時とか、どこかに寄りたいときは、最初から断ってる。だから、今日は、大丈夫だよ」
「そっか」
 短く答えた翔は、どことなく安心したようだった。その口調につられて、雛もやっとこちらから話しかける糸口を掴んだ。