Sparrow!!--#2:Froat(02)

 またか。母に何か言われると、決まって二言目はこのことになる。
「駿も、人の心配をしてる場合じゃないでしょう。来月のコンクールのために、レッスン時間を増やせるか先生にも打診しましたから」
「うん。僕もその方が良いかな。個人練習じゃ、思うように詰められないから」
「でしょう。これで成果が出せたら、一気に知名度も上がるはずです。だから、頑張って」
 兄は雛に対しては子供っぽくはしゃいだりする癖に、母を相手にすると急にかしこまった態度になる。FMの話だって殆どしない。ピアノの話を始めた二人から視線を滑らせ、雛は今空席になっている父・龍彦の席をちらりと見た。
 ここ天馬市の市会議員である父は、催し事や他地域への視察で家を数日空けることが多い。今も長めの出張で、一週間ほど家を空けている途中だ。
 宝生家は、天馬市が現在の規模になる前からのこの地の名士の一つである。市議としては雛の曽祖父の代から三代にわたって街を支え続けており、家系からこれを輩出することが、一種の使命のようになってしまっている。特に父の場合、駿と雛は四十歳間近に得た子供ということもあり、跡目に焦る気持ちがあるのは想像に難くない。しかし。
 この話をされると、後頭部に何かがぶつかったように思考が鈍くなるのだ。先ほど一人でいた時と同じ感覚。あの時の瑠夏の凛とした表情と、今自分を一瞥していた母の厳しい顔が頭の中で交差する。
 私にはこれしか無いから。
 駿が音楽の道に進むんだから。
 そのことを誰かに支えて貰えていることを。
 貴女にはしっかりして貰わないと。
 雛はまた俯いて、両手で包むように持ったティーカップに視線を落とす。
 ミルクで濁らせた紅茶に映る自分は、置き去りにされた子供のような顔をしている。
 母と兄が食事を終え、神林に声を掛けられるまで、雛はずっと、虚像の自分を見続けていた。


 空を飛ぶ天馬を思わせる形をしているから――それだけの簡単な理由で、この町は天馬という名前を冠している。けれど、元々は天馬の形ですらもなかった。
 伝統だった漁業と工業で細々と経済を回していたこの町は、小規模の市町村が身を寄せ合っているだけの地方都市だった。他地域から隔離するようにそびえる山と、海をくるむように湾曲した海岸に囲まれ、交通事情はお世辞にも良いとは言えない。しかし、そんなこの地に目を付けた団体がある。国内有数の大企業・星馬(せいま)重工だ。
 何でも、創始者である当時の会長がこの町の出身だったそうだ。規模拡大に伴って本社工場を地元に移した彼は、周辺海域の大幅な埋め立てに手を付け、同時に市の人口数を急上昇させた。急上昇した人口は経済の流れも太くし、山を開拓して住宅地を増やし、線路を敷き、東西を貫く高速道路を造り、二度にわたる町村の合併も促し、近代的な建物が次々に建った。
 たったの数十年で、街は見違えるような高度成長を果たした。
 新しい市名の由来にもなった、翼を広げて空を目指すような天馬の形は、そのままこの街の発展をも表している。
 そして、フェザー・モートを開発し、天馬マリンドームを造り、FMマッチを始めたのも星馬重工だった。

 その星馬重工とも繋がっている、この市の中心を南北に分ける大通りの途中に、雛や駿の通う高校はある。
 私立海央(かいおう)大学付属高校。付属先の海央大学と共に、この市に天馬と名付けられるずっと前からある由緒正しい学校で、他地域からも毎年多数の入学者がある名門だ。雛の父も、市議になる前は一時期ここで教鞭をとっていたことがあるらしい。途中で建て替えられてからまだ年月の浅い校舎たちは、限りなく翳りのない白で統一されている。華々しいメインストリートの中で、この直線的な建物の存在感は生徒たちが思っている以上に大きい。
 九月がまだ夏の延長上にあることを告げるくっきりとした午後の空に放たれた水が、緩やかな弧を描いて日光にきらめいた。購買や食堂が一括になっている校舎の二階、中庭を見下ろすちょっとしたカフェスペース。お気に入りの窓辺の席で、雛はぼんやりと止め処なく放出される噴水を眺めている。朝から続いたテストは先ほどつつがなく終わり、周りの生徒たちはいつもより早く始まった放課後を満喫していた。
 スペースの隅で数人の笑い声が起こり、店員がパンケーキを焼く良い匂いが鼻孔を掠める。日光は窓ガラスを通して温くなり、雛の睡眠不足な脳はゆっくりと重くなっていった。もう突っ伏してしまおうかと考えている矢先に、雛を席に残してカウンターに向かっていたクラスメイトの白石彩葉(あやは)がトレイを持って戻ってきた。
「おいおい。雛、目が死んでるよ」
 長く真っ直ぐな黒髪をかき上げて席に着き、彼女はトレイに乗せていたアイスティーのグラスを雛の傍にとんと置く。
「はい、これ飲んで生き返りなさい」
「……ありがと」
「そんなに頑張って一夜漬けしてきたの? 普段から勉強ばっかしてるのに、まだ足りないのか」
「そうじゃないけど」
 顔を上げると、親友の呆れと心配の混じった表情が見て取れた。こちらの家の性質を知っているからこその発言だ。
 確かに雛はテストに関係なくコンスタントに自習している。この学校が学力重視な方針だからというのもあるが、両親からの言いつけに従っている面が大きい。だからこそ、二人が納得するような点数と順位を取り続けていないと、自分は相手にされなくなってしまうのではないか――という不安が常に頭の片隅にある。何をおいてもピアノが最優先な兄とは、訳が違うのだ。
 ただ、最近の憂鬱の原因はそこではない。
「じゃあ何だ。――橘川か?」
 何の前触れもなく彩葉の口から出てきた名前に、雛は口に含んでいた紅茶を吹きかけた。