Sparrow!!--#2:Froat(01)

 試合終了の合図とともに、客席のそこかしこで大きな銀色の花が咲いた。
 賑やかな音を立てて夏の空に舞い上がるジェット風船に、風に煽られて舞う紙吹雪。銀色の花の正体は細く長いテープで、無数に咲き乱れては流星群のように幾重もグラウンドに注がれた。先ほどまでの秩序を失くした観客の声は、様々な感情を爆発させて渦のように膨れ上がる。
 夢のようなという表現ですらも陳腐に感じてしまう、リアルな非日常がそこにはあった。
 手を伸ばせば触れられそうで。けれど同時に、その手は宙に弧を描いてしまうだろうことも予感する絶妙な距離の中に。
 色とりどりの紙吹雪が髪に付くのにも気づかずに、雛は呆然と――しかし身を震わせながら、その光景を懸命に目に焼き付ける。
 それは、たった十六歳の少女を変えるのに、十分すぎるくらいの時間だった。

――二年前に事故をした時は、確かに、自分はもう飛べないだろうとも思いました。
――でも、私にはもうこれしか無いから。
――一生を賭けられるだけのものに出会ったこと。それをこれからもずっと続けられること。
――そして、そのことを誰かに支えて貰えていることを、心から感謝しています。
 最後の試合を圧倒的な勝利で終わらせた望月瑠夏は、客席の賑わいが収まるのを待ってインタビューのマイクを手に取った。その声と表情を、雛は未だに鮮明に覚えている。
 元からそういった性分なのか、笑顔はあまり見せなかった。試合直後のポーカーフェイスのまま、観客の祝福への反応は軽く手を上げるだけに留め、完全に落ち着いている。ほどよく日に焼けた肌が健康的で、きりっとした目がやけに際立って見えた。女性の割にハスキーな声も彼女の雰囲気によく似合い、それが雛に与えた印象を更に強くしている。
 私には、もうこれしか無いから。
 長く続いていたピアノもあっさりやめてしまったような、何も持っていない自分には考えられない台詞。
 あれから一か月と少しが経っているが、この言葉を思い出さないでいる時は無かった。四六時中、何をして何を聞いていてもそれは体の中をぐるぐる回り、吐き出されることなく胸に引っかかっては溜まる。
 だからか、向かい合った鏡の中の自分の顔は何となく重い。
 窓から入り込んだ九月の朝の光が、自室の空気を清く洗浄した。全身鏡に映る、真っ白なセーラーに明るいブルーグレーのスカート。胸元には、紺色のリボンを結ぶ。始業式の日には窮屈に感じた制服も、新学期が始まって一週間が経った今ではすっかり体に馴染んでしまっている。
 夏季休暇はフェードアウトするようにいつもどおりに終わり、同じくいつもどおりに学校が始まった。一生に一度だけの十六歳の夏だったのに、思い出と言えるほどの記憶はあのスタジアムでの一日しかない。
 しかもその興奮は、実にあっさりとこの空の中に溶けてしまった。
 塾に行き、図書館に行き、稀に雑貨屋に寄り道し、更に稀に友人とお茶をし、夜には兄のピアノをBGMに自習する。あれからの一ケ月は、それの単なる繰り返しでしかなかった。友人から遊びの誘いを受けても、母の意向に合わない場合は全て没にされ、親戚一同が訪れた盆の間は苦痛でしかなかった。他のことは意に介さず、ピアノの練習に没頭していた兄が羨ましい。
 怒涛のような歓声が、非日常な光景が、望月瑠夏の言葉が。
 橘川翔が去り際に見せた、あの表情が。
 忘れられなくて。けれど同時に、全て現実じゃなかったような気がして。
「――雛様、おはようございます。ご支度はお済みですか?」
 不意にドアがノックされ、雛はぎくりと振り返った。聞き慣れたその声は、執事として父に雇われている神林(かんばやし)だ。
「おはよう……ごめん、遅くなっちゃって」
 いつもなら、こうして呼びに来られる前にダイニングへと向かっている。ドアを開けた雛を見て、彼は丸い眼鏡の奥の目を三日月の形にした。もう六十代の半ばだろうが、長身の背筋はしゃんとしている。
「いいえ。お体の調子でも崩されたかと思いましたが、安心しました。朝食の準備ができていますよ」
 雛が生まれる前から務めているという彼は、父の仕事の事務も行っている母の代わりに家事の殆どを任されている。もし急にいなくなったりしたら、通常の生活ができなくなってしまうほど必要不可欠な存在だ。
 神林に促されて白く広々としたダイニングへ行くと、母と兄が既に朝食をとっていた。雛の定位置にも、ハムエッグとフレンチトーストが湯気を立てて待っている。席に着くと、神林が絶妙なタイミングで紅茶を淹れてくれた。
「遅かったね、どうしたの?」
 隣に座る駿が、手元のトーストを切り分けながらこちらを伺う。
「何でもないよ、ちょっと寝過ごしちゃっただけ。昨日寝るのも遅かったから」
 雛も朝食を口に運びつつ答えたが、駿は心配そうな表情をやめない。仕方なく、言葉を続けた。
「ほら今日、実力テストじゃない。一応復習しておこうと思って」
「だからって、寝不足で本調子が出なかったら元も子もないでしょう」
 兄の向かいに座った母のエリサが、会話に割り込んできた。紅茶のカップを上品な仕草で持ち上げた彼女は、呆れたように雛を一瞥してそれを口に含む。
 英国の血を受け継いでいる肌は象牙のように白く、飴色の髪は窓から射す日光を透かしてキラキラと光った。容姿だけを見ていると、まるで人形のように可憐だ。ただ、気の強いのが滲み出ている目元を除いては。
「……わかってるよ」
「だったら、もっと意識を持ちなさい。駿が音楽の道に進むんだから、貴女にはしっかりして貰わないと。龍彦さんも気にしているんですよ。跡継ぎのことなんて、特に。女だからいつか結婚する、なんて考えでは駄目なの」
 今まで、何度言われたかもわからない言葉だ。雛は自分を飲み込んで小さく「はい」と返事をし、しかし心の中ではため息をつく。