Sparrow!!--#1:Sprout(02)

「――……宝生(ほうしょう)?」
 突然名字をよばれ、雛はびくりと肩を震わせた。それでも動けずにいると、今度は軽く肩を叩かれ、また同じ声が頭上から降ってきた。
「おい、大丈夫か?」
 聞き覚えのある声に恐る恐る顔を上げ、雛は全く予期しなかったことに瞬きを繰り返す。
「…………橘川(たちかわ)……?」
 クラスメイトの橘川翔(かける)だった。くりっとした目とすっと通った鼻筋は、利発で凛とした洋犬を思わせる。普段通りの無表情に少し心配そうな色を浮かべて、彼はじっとこちらを覗きこんできた。
「顔色が良くないぞ。立てるか?」
「……わかんない。ちょっと、気持ち悪くなって」
 答えながら、あまりの恥ずかしさに雛は彼から視線を外した。肩に置かれていた手が、そっと移動して背中をぎこちなくさする。こんなことは兄にもされたことが無い。一瞬ドキリと鼓動が大きくなったが、その体温が心地良くされるがままになっていた。翔は周りを見渡し、空いた方の手でこちらの腕を掴む。
「向こうにベンチがあるから、とりあえずあそこまでは移動しよう」
 手を添えたままゆっくりと雛を立たせ、先ほどよりは薄くなった人ごみを分けて目的のベンチまで歩いた。
 座ると少しだけ楽になったが、眩暈の感覚はまだ尾を引いていた。翔に何か飲み物は要るかと聞かれたが、売店で買った紅茶があるからと断る。プルトップを開けて飲むと、ほどよい冷たさと甘さが、重い熱を溜めていた体を徐々に軽くしてくれた。気分が落ち着いてきたことにほっと息をつき、雛は隣に腰かけている翔を横目で盗み見る。
 今年高等部に入って初めて同じクラスになったものの、まともに言葉を交わしたことは今まで無かったかもしれない。教室での彼は無口な優等生だが、今は折り目正しい制服とは打って変わった、無骨なオリーブ色の作業繋ぎ姿だ。前から見た顔立ちは中性的な割に、横顔になると急に男らしい印象になる。周りの賑やかさに対して伏せ気味の目は、いつも何処か遠くを見ているような憂いがあって、クラスの他の男子とは比べられないほど落ち着いていた。
 何か話した方がいいかもと、缶を置いて、遅くならないうちに雛は口を開いた。
「橘川、ありがとう」
「……別に。熱中症とかか?」
「うん……慣れないところだし、人に酔っちゃったのかも」
 もしくはそのどちらもか。応えると、翔がふとこちらを向いた。視線がぶつかる。
「じゃあ、今日で初観戦?」
「そう、お兄ちゃんの付き添いで。びっくりしたよ、こんなに人がいるって思ってなかったから」
「夏大会は毎年こんな感じ。決勝だから尚更かな。秋はもっと凄いけど」
「橘川は、よく来てるのね」
「……そうだな。何だかんだでいつも来てる」
「好きなんだ。なんか、ちょっと意外」
 春にもFMマッチの大会期間があり、教室内でもかなりの話題になっていたが、翔がその話をしていた記憶は殆ど無い。それに、兄や他の観客のような上気した雰囲気もあまり感じられない。彼も雛の言うニュアンスを察知したのか、少しだけ考えるように視線を泳がせた。
「好きというか、勉強しに来てるって方が合ってるかな」
「勉強?」
 その時、スタンドの方から打ち上げ花火のような破裂音が鳴り響いた。そして、それに誘発されて湧き上がる歓声。スタジアム全体が一つの生き物のように唸り、足元が大きく揺れたように錯覚する。
「な、何これ」
「始まったんだ。選手が入場する」
 翔が慣れきった様子で腕時計を確認した。気が付くと、先ほどまで周りを行き交っていた人ごみが、波が引いた後のように消えている。破裂音がする度に高まっていく客席のホルテージと、先ほどとは桁違いのボリュームで鳴り響くBGM。万単位の人々の声は、離れているというのに洪水のように雛の鼓膜を襲う。
『さあ! 今年もやってきました、FMマッチグランプリサマー2077、決勝! 皆さん、準備はいいですか?』
 その歓声に劣らぬように、司会であろうアナウンサーの声も盛大に鳴り響いた。各々に叫んでいた観客達が、今度は一斉に揃ってこれに答える。
『――それでは早速参りましょう! この最終トーナメントに残った八人のトップ選手の入場です!』
「どうする? 今客席行ったらかなり混雑してるだろうし、気分悪いならもうちょっとここにいた方が良いと思うけど」
 スタンドの方をちらりと伺いつつ、翔が言った。格好の所為もあるからだろうか、普段教室で感じているよりもずっと話しやすい。
「橘川は良いの? 行かなくて」
「出る面子はわかってるから、どっちでもいい。そっちこそ、初めてなら見たいだろうけど……」
『まずは一人目。今回で三度目の最終トーナメント進出です。事故による怪我、そして二年に渡るリハビリ期間を経て、ようやくここまで返り咲きました。今日一番の大注目選手、望月瑠夏(もちづき るか)!』
 こちらの会話を遮るように、アナウンサーが高らかに言い放った。観客が爆発的に盛り上がる。雛も元々選手は誰一人として知らないのだが、この盛り上がりにはさすがに気を引かれた。
 同時に、客席に一人にしたままの駿のことも思い出す。
 別れる時は雛よりも周りの空気に夢中といった様子だったが、あの気の弱い兄のことだ。もしかしたら、こちらのことを探しておろおろしているかもしれない。
『続く二人目。今年から本戦に昇格、初めての出場でここ決勝に上がって参りました。今回最年少の十八歳、柏原悠斗(かしはら ゆうと)! ――』
「……行ってみようかな。お兄ちゃんも待ってるだろうし」
 会場のざわめきに掻き消されかねない声でそう呟いたのを、翔は聞き逃さないでくれたらしい。すっと立ち上がり、こちらに向かって手を差し出した。彼は男子の中でも小柄な方なのだが、手は思いのほか大きい。見上げると、フロアの照明に照らされた瞳が眩しくて、雛は思わず目を細めた。
「じゃあ、行くか」
「――うん」
 おずおずと手を伸ばすと、彼のその手がぐっと握り返した。