Sparrow!!--#1:Sprout(01)

 南からの風には、微かに潮の香りが。
 大きな卵型に切り取られた七月下旬の空は、宇宙の色をそのまま溶かしたような深い青だった。
 階段を上りきって最初に目に入ってきたその色に、雛(ひな)は不意に魅入らされた。薄暗くひんやりとした階段とは、光の量も温度も格段に違う。加えて、先ほどまでは遠かった人々の喧騒や楽器の音が、解き放たれたようにけたたましく耳に入った。
 太陽はもうすぐ一番高い場所に到達するほどで、短く色の濃い影が足元に身を潜めている。七月の最終日曜日、真夏の真昼のスタジアム。悪あがきのように壁の高い位置に取り付けられた空調が、この熱気に対抗しようと必死に風を送っている。
「――凄い人」
 眼下を溢れるように埋め尽くす人の渦に、思わずそう呟いた。
 家から被ってきた白い帽子のつばを持ち上げ、ここ四階スタンド席の一番奥から、この広大な会場の隅から隅までを見渡す。色とりどりの広告に囲まれたグラウンドの人工芝は夏らしい濃い色に仕上げられ、反対側の客席に付いた庇が銀色にきらきらと空の青に映える。
 擂り鉢状に眼下に広がる客席には、手持無沙汰そうに煙草を吹かす中年の男もいれば、数人で和気あいあいと話しこんでいる少年グループや家族、パンフレットを読みあっているカップル達もいる。対岸のスタンド席を見渡しても、そこを埋める人々は皆指の先ほどの小ささだ。その光景は、幼いころからピアノの演奏会やコンクールに行き慣れている雛から見ても、目がくらみそうなほどである。
 しかしその誰もが高揚し、これから始まることに対する興奮で場内の熱気を更に掻き立てている。日影にいたおかげで一度は乾いていた汗が、またじっとりと吹き出してきた。今日は髪を上げてきて良かったと、ツインテールにした首の後ろ辺りをハンカチで拭う。
「ほんとだね。僕もちょっとびっくりした」
 傍らに立つ兄の駿(しゅん)も、被っていたキャスケットを外し呆然とした調子で返した。元々囁くような話し方をしているせいで、その声は周りの話し声やスピーカーから流れるBGMに掻き消され気味だ。雛は横目で兄の様子を確認する。体が弱く性格も大人しい兄が、この空気に圧倒されてまた体調を崩すのではないかと思ったのだ。
 しかしそんな雛の心配をよそに、駿は目を輝かせていた。もう殆どが埋まっている座席をひっきりなしに見回し、二人分空いている場所を探している。
「どの辺りがいい? 雛。上だと全体がよく見えるし、下の方だと選手がすぐ上を通ったりするんだって」
 『FMマッチ観戦初心者ガイド』と書かれたページを携帯端末のディスプレイに映し出し、すっかり興奮しきっている口調だ。今朝家を出た時から、兄はもう何度も繰り返しこのページを開いては眺めている。
 FMマッチ。クラスメイトの間でも度々話題になっているし、今このスタジアムに集まっている客層やその数を見る限りでも、老若男女問わず人気のあるスポーツだ。しかし、あいにく雛は今までに一度もまともに見たことが無かった。
「それに、ねぇ見て。あそこ、このスタンドの一番下、手摺と椅子の間にスペースがあるでしょ? 選手が近くにきたら、それを追いかけてお客さんがあそこを移動するんだって。凄いよね」
「そう? 危ないだけじゃないの」
 兄が指差した方を見ると、確かにこのスタンド席の一番下、椅子からフェンスの間に、三メートル弱程のスペースが開いている。開いてはいるが、そこを客が走るという光景が今の雛にはイメージできない。
「はしゃぎ過ぎて怪我するのだけはやめてよね、お母さんにバレたら大変なんだから……席はどこでも良いよ。お兄ちゃんが来たくて来たんでしょ?」
「そっか。ううん、でもどうしよう。どっちも捨てがたいしなぁ。初心者向けなのは上の方だって書いてあるけど、次はいつ来れるかわからないし……」
 生まれつきの類まれなる優柔不断を発揮し、兄は軽く腕を組んでブツブツと悩みだした。長袖のカッター、薄手のニットのベストに紺のスラックス、そして白い手袋という格好の彼は、この炎天下のスタジアムの中においてどう考えても浮いてしまっている。ピアノの前に座れば自ら圧倒的な世界を作ってしまうのに、普段のこういった場面では他人をリードすることに全く慣れていないのだ。
 すでに人ごみに酔い気味だった雛は、うんざりして軽い溜息をついた。
「もう。私、先に売店行ってくるよ。お腹空いちゃったし。上でも下でも良いから、この辺りの席に座ってて? お兄ちゃんの分も、適当に何か買ってくるから」
「えっ、あ、うん」
「わかりやすい所にしてよ。人から話しかけられても、付いていかないように。あとほんとに、絶対に怪我はやめて」
 我ながら幼児にでも言うような口調だなと感じながら念を押して、雛はそこを後にする。わかったという兄の小さな返事が、他の観客のざわめきの中で背中越しに聞こえた。元来た通路に舞い戻り、階下のフロアに出ていた売店を目指す。客席は殆どが埋まっているというのに、観客席へ入ってくる人の波はまだまだ続いている。冷房の効いたフロアを横切りながら、周囲から当てられた熱がすっと解けていくのが心地よい。
 小さいころからピアノの英才教育を受け、それ以外のことに全く興味を示さなかった、いや、示すことを禁止されていた兄が、FMに嵌ったのは割と最近のことだった。今日のこの試合だって、つい三日前に付き添いを頼まれたのだ。
――母さんに言うと絶対に反対されるから、雛も一緒に、クラシックの演奏会に行くって言っちゃったんだよね。
 そう言ってすまなそうにしながら、兄は自分で買ったという二枚のチケット――もちろん、彼が生まれて初めて自ら買ったチケットだ――をこちらに差し出してきた。
 正直、天変地異だと思ったものだ。確かに、両親に隠れてテレビの特集番組を見たり、口を開くたびに新しく仕入れたFMの知識を織り交ぜたりしていたのだが、まさかここまでする程だとは。他に予定が無かったと言えば嘘になるが、そこまでされては断ることもできない。
 それに、あの優柔不断で引っ込み思案の兄にここまでさせたFMマッチというものに、少しだけ興味をそそられたのだ。しかし。
 売店で適当に品物を手に取りながら、FMマッチに熱中するこれまでの兄を思い返す。しかし何故だろう。あまり、この事態を面白く感じていない自分がいるのだ。はしゃいでいる兄にも、高揚した熱気に包まれた観客席にも、自分は溶け込めないと感じる。自分一人だけ、冷たく見えない透明な箱に入っているような気分だ。
 兄と一緒にピアノを習っている間も、こんな感覚が続いていた。兄を取り巻く世界は、華やかで、眩しくて、目まぐるしい。そしてそんな世界を吸収できるのは、彼がどんな流れの中でも、前を見て羽ばたき続ける能力に長けているからだ。
 雛にはその能力が無い。だから、いつだって置き去りにされる。
 そんな兄に付いて行けずに、好きで始めたピアノだっていつの間にかやめてしまった。
 缶入りの冷たい紅茶とパンを二つずつ、それに袋入りのポップコーンを買って、雛は店を出た。通路の人ごみの量は更に増しており、自分がどちらから来たかも一瞬わからなくなるほどの賑わいになっている。二十代ぐらいのカップルも、小学生のグループも、両親程の年齢の大人たちも、全員が全員、兄と同じ表情をしてスタンドへと向かっていく。
 期待、緊張、希望、興奮。日常と地続きであるはずでいて、非日常としか思えない、数万人を擁するこの空間。瓶詰にされて嵐の海に投げ出されたアリスのような、まるで知らない世界に来てしまった不安と疎外感。
 不意に眩暈を覚え、雛は兄の元へと進めていた足を止めた。
 みるみるうちに手と足から血の気が引き、床が本物の海面のように揺れていると錯覚する。すぐ後ろを歩いていた数人が、少し迷惑そうに顔をしかめながら雛の横を通り過ぎて行くのが見えた。よろめくように人波をかき分けて壁際まで来ると、雛は思わずその場でうずくまる。
 目が回る。心拍数と息が上がり、先ほどスタンドに上がった時とは別の種類の、冷たい汗を背中に感じた。と、