未完成キャンバスと憂鬱なマチエール

「それって、上から全然違う絵も描けるんすよね」
 何の気もなく口をついて出た言葉に、彼女が振り返った。気の強そうな目。顔の横にかかった長い黒髪の流れ方が見事に嵌っていて、女優みたいだと瞬間的に思う。
「どうして?」
「や、別に深い意味は無いです。ちょっと調べてみたらそんなことが書かれてて、ほんとにそうなのかなって」
 予想以上の剣幕を掻き散らすように、俺は手を振った。彼女は納得したらしく顔を緩ませ、うんと頷く。
「そうだね、描けるよ。先の絵をつぶして」
「つぶす?」
「絵をつぶすって言うの。絵の具の凹凸ができてるでしょ? ペインティングナイフでこれを全部削って、キャンバスをまっすぐにするの。そうしたら、新しい絵が描けるようになる」
 言い終わると、彼女はまた描きかけの油絵と向かい合った。そこには黄金――本当に光っているのではなく、勿論ラメが入っているわけでもない、色とりどりの黄色。多くの濃淡、微妙な赤みと青みの違いを持った幾種類もの黄色が、瞬く星のような細かさで重なって陰影を作り、あたかも輝いているように見えるのだ――の世界があり、中央にある人物のバストアップを神々しいものに変えていた。彼女と向かい合うキャンバスの奥には学校裏に面した窓があり、黄色く染まったばかりの銀杏の葉が西日と混ざりながら揺れている。キャンバス上の黄金がこの銀杏を抽象化させたものであることに、俺はつい先週くらいに気付いたのだった。
 描きながら、彼女は続ける。
「そんなこと調べて、やっと入部してくれる気になったのね」
「しないっすよ」
「じゃあ他の友達とか? 絵に興味ある子がクラスにいるの?」
「描ける奴はいるけど、もう漫研に入ってるし」
 彼女はつまらなそうに、何だ、と呟いた。
「というか、三崎君はどうしてここに通ってるの。冷やかし?」
 彼女は唯一の美術部員、もとい美術同好会の会員兼部長だ。聞けば去年上級生が全員卒業し、一人きりになったために部から同好会に降格されたらしい。美術教師が面倒を見てくれているらしいが、陸上部と掛け持ちのためあまり顔を出さない。だから彼女は放課後のこの美術室にて一人、勝手に好きな絵を描いている。俺的には正式な部なんて上下関係やなんやで面倒なだけと思うのだが、不利で不便なことも多いようで、彼女は部員を随時募集しているのだった。
「俺の家の近くで、今高架作ってるんすよ」
「え?」
「高速道路。一昨年から作り始めて、完成するのは再来年くらいになるそうです」
「……うん、それで?」
 黄色く染まった手を止めて、彼女は俺が突然始めた関係無さそうな話にじっと目を向けた。良いぞ良いぞ。その奥二重の目を見ながら、俺はもったいつけて先を話す。
「毎日見ながら登校してるんです。壊れちゃ駄目なものだから、柱の地点から超慎重に、ゆっくりゆーっくり造ってて。もう永久にできないんじゃねーの? ってくらい。でもよく見てると、一日ずつじわじわできてるんすよ。で、」
「それが油絵と似てるっていうの?」
「そっす。だから絵が出来上がってくのも面白くて、見に来ちゃうんすよ」
 思ったほど会話は続かなかった。彼女はふうんと最初の食いつきとは逆の気のない相槌をうち、また絵の方を向いてパレットの上で絵の具を捏ねだす。絵の具と油の独特な匂いには、すっかり慣れてしまった。俺は途切れた会話を惜しみながら、口を尖らせ気味にしてキャンバスに色を乗せる彼女を見つめる。
 最初にここに来たのは七月だった。無事高校に入ったもののやりたいことは何一つなく、夢中になれるものを探してふらふらと放課後の校舎を彷徨っているうちにここに辿り着き、夏休みが終わり二学期になっても離れられなくなった。静かな部屋で一人黙々と絵を描く彼女の後ろ姿が、つまらない校舎の中で黄金に輝いて見えたからだ。
「悪いけど、三崎君。それはちょっと違うよ」
 彼女は筆を止め、苦いものを無理矢理甘いと言い張っているような顔でこちらを見た。目が合ってどきりとしたのは、きっと俺だけだろう。
「高速道路はいつか出来上がるでしょう。でも油絵は、完成しないものなんだよね」
「え。でも、完成してるのは沢山あるんじゃないすか。美術の教科書にあるのしか知らないけど」
「さっき別の絵に描き直せるって話もしたけど、油絵って絵の具が渇くのが遅いから、描いてからどれだけ時間が経っててもいくらでも手を加えられる技法なの。完成してる作品は沢山あるよ。だけどこの絵は、私が完成したと思わない限りずっと完成しないの」
「……ふぅん」
 今度は俺の方が気のない相槌を打った。彼女が向かい合う絵をまじまじと見る。銀杏を背景に立つ男。学生じゃない。二十代後半くらいで、はにかんだ柔らかい笑顔をこちらに向けている。
 これは誰なのか。前に一度聞いた時彼女は「誰でもないの。人物の練習用に、想像して描いているだけ」と答え、俺はそのままずっとそれを信じていたのだ。自分の足りなさに呆れる。練習というだけの想像上の人間を、こんなに長い時間をかけて美しく描くわけがないことに、もっと早く気付くべきだったんだ。
 この男の正体を、俺は偶々知ってしまった。入れ違いでこの高校を出た兄の卒業アルバムでこの顔を見たのだ。男は去年度までいた美術の教師で、つまり今年の春まで美術部の顧問だったはずだ。
 男を知っている上級生や教師の前では、彼女は決してこの絵を描かないだろう。俺が知らないと思って平気で晒しているだけであって、本当なら校舎の隅の人気のない美術室で、彼女は一人きりでこの絵に毎日一筆一筆大事に色を置きたいはずだ。
 完成しないんじゃないでしょう。
 そう言いかけた自分を、俺は慌てて踏みとどまらせる。油絵が上書きのできる手法だと知って浮きたった気持ちが、洗い流された絵の具のように心の底に沈殿していった。
 一年前にちょうどこの場所で見たのだろう銀杏を背にした男の光景が、彼女の中でどれほど濃厚で美しく、輝かしいものだったのか――この絵、そして彼女の筆の動きを見るだけで俺にはわかる。時が止まったかのような集中。風に揺れるカーテンも、その風が連れてくる吹奏楽部の音色、野球部の掛け声、ボールの跳ねる音、蜜のように室内を満たす午後四時の日光さえ、目の前の男に対する彼女の世界を侵すことはない。隠しても隠しても浮かび上がる憂鬱、それを塗りつぶしたいがための熱が絵の具を溶く油の中に等しく混ざっている。毎日飽きるほどに通っていて、それでも、俺は絵を描く彼女から目を逸らしたくても逸らせられないのだった。
 見ているだけでいい。最初はそう思っていて、描かれている人物にだって興味も無かったはずなのに、いつからだろう。次は俺を描いてみてくださいなんて台詞を言う時を、俺は待ち焦がれていた。けれど、彼女はこの絵を意図的に描き終わらせないでいる。俺が望む瞬間は、彼女がこの絵を描いている限り、そんな時間は永久にやってこないのだ。たとえ無理矢理凹凸を削り、つぶしてやったとしても。
「どうしたの?」
 彼女の声に我に返った。驚くその顔が信じられないまま、銀杏の葉を撫でて這入ってきた風が頬に当たって初めて、俺は自分の頬を伝う涙に気が付いた。掌で拭って安堵する。流れたのはまだ一粒だけだ。
「ゴミが入ったんです。窓、閉めません?」
 心配そうな彼女の前を横切る。完全に背を向けた時、今度は目の奥にはっきりと涙の気配を感じた。輝く銀杏の葉の上。また落としてしまわぬように、俺は秋の深まりゆく外の空気を思い切り吸い込んだ。

(未完成キャンバスと憂鬱なマチエール--FIN.)
※こちらはフリーペーパーとして発行したものです。