やわらぎのふち、せのほとり

 暗く寒い夜を足早に駆け、深い浅葱の暖簾をくぐる。
 冷え切った頬に、猫の背のように暖かい空気が当たる。行き交う人の肩に切られ、飛び散り、渦を巻く、流動的な外の冷気とは正反対の、空間いっぱいにぎゅっと詰め込まれているような暖気。橙の灯は穏やかで、眩しくも暗くもない、丁度いい塩梅でこの店の雰囲気に馴染んでいた。こぢんまりとした居酒屋。酔えるならどこでもいいと勢いで選んでしまったから、店名さえも見ていない。カウンターはほぼ埋まっていて人口密度は高いが、煩いという印象は無かった。静かで、照明の色の通りのゆったりした時間が流れている。カウンターの奥で料理を作っていた初老で恰幅の良い店主が、俺に気付いて目じりに皺を作った。
「いらっしゃい。何名で?」
「あ――ひとりで」
 答えると、店主は一番奥の座敷に行くように指示してくれた。丁度空いて、今皿を片付けたばかりだと言う。言われた通り襖を開けて席につき、ほどなくして女性の店員がお通しを持ってきた。
「とりあえず、豚の角煮と豆腐サラダ。酒は……」
 生中と言いかけたが、外の冷えを思い出してやめた。メニューをざっと見たところ、日本酒の種類が多い。純米、山廃(やまはい)、吟醸という専門用語が目につくが、味の想像なんて全くできない。
「お任せしていいですか――って、井上?」
「あれ、敷島。どうしたの?」
「こっちの台詞だ」
 店員は同僚で同期の井上だった。和服に襷をかけてエプロンをつけ、髪も上げているから、ぱっ見では別人のように見える。
「お前、何でこんなとこで働いてるんだ? 社則違反だろ」
「そう言われたらそうなんだけど」
 井上は言葉を濁した。視線がメニューの表紙にいく。そこには味のある毛筆で「居酒屋ほとり」と書かれていた。
「私んちなの、ここ。週末たまに手伝ってるんだ」
 井上の下の名前が「ほとり」であることを、俺は一拍遅れて思い出した。
「好きでやってるからお駄賃は貰ってないんだけど、課長には内緒にしてて。ね?」
 口元に人差し指を立てる。いつもはお喋りで頑固で、子供みたいな印象のある井上だが、格好の所為で妙に大人びて見えた。
 お待ち下さいませ、と鈴の音の声を出し、井上は下がっていった。十五分くらいで、サラダと猪口と徳利を運んでくる。猪口と徳利は渋い色味の陶器で、触ると少し冷たく感じた。最初の一杯をお酌して、井上はごゆっくり、と去っていく。気配が向こうにいった所で、俺はその一杯を一気に飲み干した。
 香りを確かめる間は無かった。辛みの効いた酒の味が、舌の上をきんと切るように走った。けれど、酔えれば何でも良い。呑んで酔って、嫌な記憶を忘れたい。そもそもそう思って、俺はこの店に来たんだ。
 徳利を傾け、呑む。もう一杯。また一杯。徐々に熱く煮える頭の中で、俺は丁度一時間前のことを思った。向かいの席に座っていた彼女が、口をへの字型にしてこちらを見ている。映画に行っても買い物をしても、装飾品をプレゼントしても、彼女はもう笑いもしなくなっていた。どうしたんだよ。言いたいことあるなら言えよ。彼女の態度に臨界を知った言葉が、最後の砦を突いて出た。
 思考を遮って襖が開く。盆に小鉢を乗せた井上が、嬉しそうな顔で現れた。
「お待たせしました。豚角煮です――やだ、もう潰れちゃったの?」
「……井上ぇ」
 自分でも衝撃的なくらい、情けない声が出た。
「何かあったの?」
「俺って、つまんない人間なんだろうか」
「はい?」
「一緒にいてもつまんないから――もう限界だって」
 なぞるだけでも嫌気が差す。
「それ言ったの、彼女さん? 総務課の」
「な、何で」
「わかるよ。え、別れたの? まだ一年くらいだったっけ」
 井上の言葉が図星を貫き、酔った頭でもわかるほどのダメージが胸にぶり返した。悔しさと遣る瀬無さに震える手で猪口を握り、乱暴に注いでまた煽る。
「真面目過ぎるって何だよ……真面目にやってて何がいけないんだ!」
 頭がかっと熱を持ち、視界が揺らいだ。腹の中でわだかまっていたものが、堰を切って言葉になった。何でもした。俺は頑張った。あいつは何も言わなかった。なのに俺が悪いのか。何が悪いんだ。
 話にもなっていない言葉の鉄砲水を、驚いて固まる井上に浴びせかけた。が、止まらない。時間も金も気も遣い、それでも良いと思えたのは、彼女が好きだったからだ。なのにそんな簡単な言葉で、全部を雑に切り落とされるなんて。
 また徳利を傾ける。なみなみに注いだ猪口を、俺はまた掴んだ。
「あっ、待って!」
「何で止めるんだよ!」
「いいから。ちょっと待ってて」
 井上は店の奥に引っ込み、すぐに新たな盆を持ってきた。そこには一杯のグラスと、小ぶりなピッチャーが乗っている。
「はい、和(やわ)らぎ水です」
「水? チェイサー?」
「バーとかではそう言うね。……敷島。お酒って、料理を楽しみながらゆっくり味わうものなの。で、飲み過ぎないようにたまに和らぎ水を挟む。身体の中でアルコールが薄くなって深酔いしないし、口の中がリセットするから、料理もずっと楽しめるよ。ほら」
 言われるがまま水を飲む。薄い膜を作ったようだった酒の感触が、すっと喉の奥へと洗われていく。澄んだせせらぎが体内を通り過ぎていく清涼感。勿論水を飲んだことはこれまでに幾度とあったが、こんなに「水」自体の形を意識したのは生まれて初めてだ。品良く柔らかくて、何でも包み込む大らかさがあった。体に滞ったアルコールの熱が水に包まれて、心地良く解けていくのがわかる。
「角煮、食べてみて? お父さんのほんとに美味しいから」
 また大人しく従う。醤油の甘辛い匂いの効いた角煮は、箸の先で触れただけで崩れた。そっとつまんで口に運ぶと、口の中はその熱とまろやかな肉汁に満たされた。肉は舌の上でほろほろと崩れ、歯を使わなくても良いくらいだ。
「……美味しい」
「でしょう。その状態で、お酒を呑む。角煮に合わせて選んだんだよ」
 さっき継いだ猪口の酒を呑み――今度は本当に驚いた。
 先程自棄で呑んでいたものと同じ飲み物に思えなかった。少し冷たいと感じていた酒は、口の中でほころぶように温度を纏う。口に残っていた醤油と砂糖の効いた角煮の味わい、ふくよかな肉汁と脂が、辛味の強いすっきりとした日本酒で更に引き立った。
「ね、ぴったりでしょ?」
「ああ……凄いな。水を飲まなかったら、わからなかったかも」
 水で体と口のアルコールを濯いだおかげで、料理と酒を真に楽しめる状態になったのだ。
「酔うためにお酒を呑む場も楽しいけど、こうやってね、丁寧に呑むのも悪くないでしょ。どんなお酒でもだけど、辛いことや嫌なことを塗り潰すような飲み方はしちゃ駄目だよ。誤魔化すんじゃなくて、流していこうよ」
 井上は慣れた手つきでグラスに水を注ぎ足し、手渡してくる。
「それにね、私は敷島の真面目で丁寧なとこ、好きだよ。つまんなくなんかないよ。丁寧にやる方が、何事も楽しめるもんね」
 言って、井上が笑った。色気さえ感じる今日の表情に、いつもの幼い面差しが混ざる。
 ぼっ、と幻聴を感じたほど、急速に体が熱を帯びた。温度が胸から頬へと駆け上がってくる。俺は虫の鳴く声で礼を言い、不意に視線をグラスの水面にやった。映り込んだ自分と目が合う。覗いでいるうちに、そこにも軽やかな笑みが宿っていった。
 丁寧に呑み、丁寧に楽しむ。その時間の心地良いこと。胸に灯った熱を解くように、俺はまた一口飲んだ。柔らかく優しい、和らぎの水を。

(やわらぎのふち、せのほとり--FIN.)