融解する夜

「どんな味がするんですか? それって」
 私の子供じみた問いを受け、彼は傾けていたグラスをゆっくりとテーブルに戻した。グラスの中の氷が揺れて硝子に当たり、りんと澄んだ音を立てる。彼はわずかに破顔した。上品で優しい、だけど何となく寂しげな笑い方。その独特な表情は、西洋絵画の中の聖者にも、家に置いて行かれた少年にも見える。置いたばかりのグラスをこちらに傾け、その表情に悪戯っぽい色を溶かした。
「飲んでみる?」
「え、あ、いえ――」
 不意打ちの誘惑に、私はどきまぎしながら首を振った。動揺を誤魔化そうと、マドラーで自分のカクテルをからから混ぜる。
 柔らかいビロードのような照明を受けて、彼のグラスの中で琥珀色の液体が妖しく光を放った。彼はそれで少しずつ唇を濡らしながら、じっくり時間をかけて味わっていく。微睡むように、沈み込むように。私も社会人なってから数年が経つし、お酒の席は何度も経験しているけれど、こんな風にお酒を呑む――呑むというより、嗜むと言った方がずっとしっくりくるけど――人は、この人以外に誰も知らない。
「だってウィスキーって、度数高いじゃないですか。苦そうですし。だから飲んだことなくって」
「ストレートの度数は高いけれど、味は飲みにくいほどじゃないよ。君が飲むなら、ハイボールでも――」
 彼の着信音が鳴った。スーツの内ポケットから仕事用の携帯電話を引っ張り出して相手を確認し、軽く片手を上げる。
「ごめん。出ても良いかな」
「全然良いですよ」
 彼は電話に出ながら店の奥に向かった。広い背中を見送った後、私は今の今まで埋まっていた隣の空席を見る。店内は十分暖かいのに、彼が席を立ったというだけで何となく肌寒い気がする。
 彼と私の関係を言葉にするのは難しい。同じ部署でもなければ年代も違うのに、何故かこうして不定期に同じ時間を過ごすという奇妙な仲。出張や会議でぎっしり詰まった彼の予定の隙間を縫って会い、食事の後は決まってこのバーで一杯だけグラスを空ける。それだけ。こう言うと誰もが口を揃えて嘘だって言うかもしれないが、本当にこの後は何にも無い。
 音量を絞ったスローなジャズが聞こえる。客は私達を入れて三組。この店の一番奥にある窓に面したカウンターは彼のお気に入りで、まだ眠らない街のネオンが良い具合に癒しをくれる。賑やかな店で飲むことが多いから、初めてここに来た時は柄にもなく緊張していた。でも、今ではとても居心地が良い。
 最初はこれだけでも充分だった。心地いい音楽と照明とアルコール。他愛のない、けれどじっくりと交わす会話。そして、彼の寂しげな眼差し。慌ただしい現実から切り離された、まるで硝子で覆われているようなこの彼との時間が、私の中では既に大事なものになっている。
 これは恋だ。しかも今までのそれとは全く別物の、洗練された恋。でも反面、それ故の諦めを感じている自分もいる。
 十八。十八歳分も、彼は私より長く生きている。彼からすれば、私なんてまだまだ子供と変わらないだろう。近所の子供のお守りをする感覚なのだ。つまりは遊びで、だから微妙に距離を取られているし、持ち帰るようなこともない。この恋は、きっと打ち明けることなく終わるだろう。彼が私に飽きれば、きっと自然消滅する。ちょうどアルコールが分解され、気持ちの良い酔いから覚めていくように。
 彼のグラスを手に取り、店の照明をそこに透かしてみた。硝子のように透き通った彼と一緒にいられる時間が、琥珀のウィスキーに溶けていく。
 苦そうと言ったけれど、たまらなく甘美な蜂蜜色をしている。私はまるで、それこそ子供が禁忌に魅せられるようにグラスの縁に口を付けた。液状になっている彼との時間で、静かに火照っている体内を濡らす。
 味よりも、濃厚で芳しい穀物の香りが先に来た。蜂蜜の味からはかけ離れた、深い苦みが強いアルコールと共に舌に広がる。それが喉を過ぎる頃には、苦みのずっと奥に潜んでいた甘みがとろりと濃密な余韻を残した。
 くらりとする。これに比べたら、私がいつも飲んでいるサワーなんて殆どジュースだ。けれど嫌な気分はしない。むしろもっと欲しいくらい――と、
「大島君?」
 電話を終えて戻ってきた彼が、いつの間にか背後すぐまで戻ってきていた。私は慌ててグラスを降ろす。
「すっ、すみません」
「構わないよ。どうだった?」
「やっぱり苦いです。でも……美味しかったです」
「それは良かった」
 彼は優しく言い、元通り隣に着く。置いたグラスに赤い自分の口紅の跡が残っているのを見つけ、私は不意に視線を泳がせた。わざと付けたみたい。彼にそれを気付かれたくなくて、私は咄嗟に適当な話題を引っ張り出した。
「私最初は、坂本さんてお酒弱いのかなと思ってました。忘年会でも飲まれなかったから」
 去年の忘年会のことだ。お互い遅刻して、ほぼ同じタイミングで会場に着いた。揃って通された余りの席で初めて彼と言葉を交わした私は、好きな作家と野球チームが同じなことに感動して、普通よりも一杯多くグラスを空けたのだ。ビールもレモンサワーも、あの時はいつにも増して美味しかった。でも一方の彼は、他の人に勧められるお酒を丁重に断っていたのを覚えている。
「ああ……あの時は、次の日に出張が入っていて」
 そこまで言って、彼は恥ずかしそうに声を潜めた。
「それにね、ここだけの話、炭酸があんまり飲めないんだ。ビールも苦手で」
「えっ」
 可愛い。口に出さず驚く私に、彼は苦笑を浮かべる。
「子供みたいだから、あんまり人には言えないけど。君は凄く美味しそうにサワーを飲んでいたね」
「よく覚えてるんですね。子供っぽくなかったですか? 一人ではしゃいでて、後で恥ずかしくなっちゃって。私、坂本さんといると、自分が幼すぎて情けなくなるんですけど」
「そうかな。僕だって、君が思っているほどしっかりした人間じゃない。仕事しか取り柄が無いし、周りに思われているほど要領も良くない。前の妻にも愛想を尽かされてしまったし、今だって、こうして君を食事に誘うだけで緊張する――」
 彼が急に口を噤んだ。けれど、私の耳はその予想外の言葉をあざとく拾う。
「どうして緊張なんか」
「……どうしてだろう」
 嘘がばれた時のようにばつの悪い、そのくせ恥ずかしくて仕方が無いという表情で、彼は私の視線から逃げるように顔を背けた。私は彼の肘に手を添える。すっかり敏感になっている私の指先は、スーツとシャツ越しに灯った彼の燃えるような体温を感じ取った。
「とぼけないで、はっきり言って下さい」
「いや、忘れてくれ。酔ってるんだ」
「嫌です。ぜったいに嫌」
「大島君」
 まるっきり子供な私の物言いに彼が振り向き、そこでやっと、私達は正面から向き合えた。彼は何かを言いかけては躊躇うのを繰り返し、ついに私の駄々に折れて続ける。
「バツイチの……お父さんと変わらない歳のおじさんに、こう……口説かれても、迷惑だろう? 君が……」
「そんなことないです。坂本さん、うちの父より全っ然若いですし。それに迷惑だったら、さっきみたいなことはしません……私も同じ気持ちです。だから……聞かせてください」
 彼の穏やかな目に、羞恥と決心と、私ではとても言い表せないほどの綺麗な色が混ざる。まるで、氷を溶かしていく琥珀の美酒のような。
「僕は、君のことが――」
 彼の唇が、言葉を紡いでいく。世界で一番極上に甘く芳醇なその全部を飲み干して、二度と醒めないくらいに酔ってしまおう。

(融解する夜--FIN.)