銀幕とスターダスト

 みぞれ混じりの雨がフロントガラスに当たって砕ける。外の灯を受けて虹色に光る氷の残滓を見ながら、俺はダイヤモンドみたいだなと何となしに思った。ダイヤモンドはこの世で一番硬い物質だとよく聞くが、実際は硬度が高いというだけで、落としたり金槌で叩いたりしたら普通に割れてしまうという。でもまぁ確かに。人間の手によって小さくカットされてアクセサリーになっている地点で、砕けないなんてことはないというのは簡単に想像が付く。
「淳太」
「あ?」
 後部座席から聞こえた声に相槌を打つ。同時に、DJが喋くっているだけのラジオのボリュームを落とした。目は勿論前を見たままだ。降っては砕ける氷がワイパーに押し出され、左右の夜闇に消えていく。奴は後ろで小さくなったまま動かず、雨音とエンジンに掻き消され気味の声で続けた。
「コンビニ寄って。酒欲しい」
 寄って下さい、だろ? 喉元まで出た冗談半分の言葉を、俺はハンドルを握り直す事で払い落とした。返事をするまでもなく、丁度目の前に来ていたコンビニの駐車場に車を停めた。俺だけ降りて店に入り、いつものカップ酒を手に取る。レジでレンチンを頼むと、メガネの店員はちょっと微妙な顔をした。俺だって、こんなことは頼みたくない。酒くせーし割れたら面倒だし、迷惑な客だと我ながら思う。でも許してくれよ。あいつは、これを一番気に入ってるんだ。
「おら、零すなよ」
 戻りしなわざわざ後ろのドアを開けて突き出すと、向こうは力無い動作でカップを受け取った。運転席に戻って半分だけ窓を開け、俺は酒を飲む代わりに煙草に火をつける。思い切り吸い込み、細く長い煙を苛立ちと共に吐き出した。人工的な甘ったるい酒の匂い。暖房と外気とそれが、車内で渦を作る。こんなジャンクな匂いのする酒の何が良いのかわからないが、こいつはそこが良いと言う。あと、一本だけでも充分ガツンと酔えるからだと。
 そのガツンと酔える酒を茶のように啜り、奴は漸く息をついた。外の照明に照らされた無駄に整った顔が、何の感情も映さず固まっている。こいつからの「今駅。迎えに来て。駄目だった」という三言だけの電話が来てからまだ三十分しか経ってないのが信じ難く、急に時間がスローになった気がする。酒を啜る音は暫く続いて静かに途切れ、少し調子の良くなった声が届く。
「淳太、有難う」
「あ? 奢りじゃねーぞ。帰ったら二百円徴収する」
「違う違う。今まで世話になって有難うって言ってんだ。年明けには、荷物まとめて出てくから」
「篤」
 唐突な改まった話に、今度は俺の方が名前を呼んだまま固まった。
 今年中に役が貰えなかったら、もうすっぱり芝居を辞める。夏頃からこいつが何度となく繰り返し言っていたことだった。高卒で養成所を出た後、バイトで食いつなぎながら稽古とオーディションに明け暮れ、篤はこの約十年必死に俳優として映画に出ることを目指してきた。だから、最初に辞めると言われた時も信じなかった。こいつは全てを投げ打ってやってきたんだ。文字通り全力で。夢を諦める所なんて、正直俺には全く想像できなかった。
「出てくって、お前実家とも縁切れてるだろ? どこ行くんだよ」
「旅に出る」
「はぁ?」
「嘘。でもそれに近いことは考えてる。どっちにしろ、お前にはもう甘えないから」
 バックミラー越しに目が合い、篤はへらっといつもの通りに笑った。
 煙と共に吐き出したはずの苛立ちがまた込み上がってくる。俺からすれば、こいつほどの役者はいない。いやそれは言い過ぎか。言い過ぎだけど、俺の中では篤は既にスターだった。何があっても何でもないことのように振る舞う天才だ。長く付き合った女に浮気された時だって、業界の糞野郎に騙されてぼったくられた時だって、果ては父親から勘当された時だって。きつい時ほどこいつは、今みたいにまるでノーダメな様子でへらっと笑っていた。
「見る目無えな」
「何が?」
「お前が今まで関わった業界の奴ら」
「そんなことない。俺より魅力的な奴なんていっぱいいるし、俺が力不足だっただけ」
「じゃあ、もっと自分磨いて見返せばいいだろ。ずっと頑張って来たのに、今更棒に振るなよ。また一から頑張れよ」
 俺は苛立ちを隠せず、煙草を乱暴に揉み消した。二本目を咥えて火を付ける。が、篤はその間も黙ったままだった。バックミラーでは顔が見えず、俺は直接振り返る。
 アラサーにもなる男が、両手で酒のカップを握り締めたまま、また表情を固めていた。
 端正な顔。頬を伝う一筋の涙と、これ以上涙を流すまいと瞬きをやめた潤んだ両目が、中途半端な闇の中で弱々しく光を反射させている。
 これはこいつの素顔だ。その上、今まで見た映画のどんな伝説的な名シーンよりも俺の胸を撃った。俯きも奮えもせず、酒と一緒に飲み下した後悔や失望が過ぎていくのを耐えて待つ。そんな感じだったし、まるでひびの入った、触れば今にも崩れ落ちそうな硝子細工のようでもあった。
 俺は半ば見惚れながら、言葉を間違えてしまったことを悟る。また頑張れなんて言葉、気安く発するべきじゃなかった。俺には安定した仕事も住む所も、中古のおんぼろだが車もある。確かに就活は大変だった。けど、こいつのように特定の夢に対して全てを投げ打って下積みしたことなんて一度も無い。するような夢も無い。そんな俺に――いくら気心知れた仲とはいえ他人の俺に、こいつの限界を査定する資格なんて実の所一つも無い。
 外野が一から頑張れと言うのは簡単だ。けどその一にも戻れないくらい、こいつは疲れ果ててしまっていた。あんまりにも無責任で残酷な言葉を、俺は吐いてしまったんだ。思えば俺が冗談だと思っていた辞める発言の時には、とっくに限界が来ていたんだろう。誰よりも演技を見抜けているつもりだったのに、こいつの何でもない風を装う演技に、俺はまたまんまと騙されていた。
 全てを投げ打って挑んだ夢から、こいつは今手を離そうとしている。それも、泣くほどの覚悟と勇気を振り絞って。
 発言を訂正した所で、代わりになる気の利いた言葉なんてあるはずもない。
 じゃあ。
 俺は何をすればいい。何をしてやれる。灰の長くなった煙草を灰皿に捨て、俺は運転席を飛び出した。
 驚いた篤が名前を呼ぶ声が、半開きのままの窓越しに聞こえる。コンビニに再度入るなりカゴを取り、篤の好きなカップ酒、ビール、発泡酒、酎ハイ、女子向けのカクテル、更にはウィスキーやワインまで、店内にある目に付いた酒を一通り詰め込んだ。つまみはビーフジャーキーとチーカマ、ポテチ、ピーナッツ、エトセトラ。足りなかったら俺が作ってやる。冷蔵庫は、確か空じゃなかったはずだし。レンチンで世話になったメガネが困惑しながらレジを打ち終え、びっくりするくらいの金額を払い、阿保みたいな重さの袋を提げて車に戻る。
「淳太、なんだそれ」
 メガネ以上に困惑した顔の篤が、さっきの俺みたいに言葉を無くしてこっちを見つめた。
「飲み足りない顔してるから、買い足してきた。おら帰って飲むぞ。そんでちゃんと吹っ切れろ。お前がくたばるまで付き合ってやるから」
 これくらいしかしてやれねーんだから。俺は。
 篤は涙を飲み込み、しけらせていた顔をくちゃくちゃにして、こいつにとって本物の笑顔を作った。笑い返し、俺はアクセルをゆっくりと踏み込みながら思う。ダイヤモンドは、砕かれたって尚光り続けるのだと。

(銀幕とスターダスト--FIN.)