春は空の中

 俺は猫である。名前はソラ。目の色が空と同じ色だからソラなのだと、大分昔にハルが言っていた。
 ハルは俺の家族だ。生まれて一月の頃から世話になっているから、殆ど母親だと言って良い。最初は大層叱られもしたが、俺ももう齢十三を越え、人間と暮らす上での分別は心得ているつもりだ。加えて最近は家が騒々しい。俺は極力家族達の手を煩わせぬよう、一人徒然と日々を過ごしていた。
「ほら、ソラ。ご飯だよ」
 サキが皿に俺の食事を盛る。三日に一度だけ出される缶入りの肉だ。鼻面を突っ込んで咀嚼し、俺は皿を差し出したままの姿で宙を見るサキを見上げる。サキはハルの息子の娘だ。一時は家を出ていたが、二年ほど前にこの家に戻ってきた。何でも「ふりーたー」とやらになったらしい。ただ、ハルが倒れてからはずっとハルと一緒にいた。ハルの息子夫妻、つまりサキの父と母は昔から共働きで、すぐにハルの世話にかかれるのがサキしかいなかったのだ。それから、ほぼ自然な流れでサキはハルの世話係になっていった。
 サキはハルが乗る車椅子を引いたり、風呂や便所にも付いていた。夜中に起きてハルの寝床を覗いていたことも、俺が持つ全部の爪では足りぬほどあっただろう。ハルは殆ど歩けず、その上ここ一年はもの忘れが酷かった。家族の名前を間違えることはおろか、俺のことを子猫と言ったりした。他にも、家の間取りや食事、生活に関すること、色々なものがハルの記憶から抜け落ちていっているように思えた。
 しばらく宙を見た後、サキははぁと大きな溜息をついた。ふらふらと台所の奥へと去っていく。俺は食事を早く済ませ、四つ脚で後を追った。にゃぁと鳴いてやるも、サキは完全に無関心だ。それも俺だけに無関心なのでなく、目に見えるもの全てに興味が無いような、まるで気の抜けたような顔をしている。
 サキは流しの下の開きの中のずっと奥、俺でさえも入ったことの無い場所から、大きな瓶を抱えて戻ってきた。テーブルに置いて蓋を外す。立ち込める甘い香りに誘われ、俺は椅子に飛び乗りテーブルに前脚をかけた。いたいけな子猫だった時は直接テーブルに乗ってしまうことが多く、その度にハルに叱られていたのが懐かしい。瓶に入った黄金色の液体に、サキは縦に長い尺を差し入れた。
「にゃぁ」
「駄目。ソラにはあげないよ」
 わかっている。これはまだ自由に動けた時分のハルが毎年この時期にこしらえていたもので、大量の青い梅の実と砂糖を特殊な液体に漬けた酒だ。酒は俺達猫には飲めぬが、どうやらマタタビのようなものであるらしい。ハルはこれらが好きだったし、この酒を作るのもそれが高じてのことだった。
 サキは酒をコップに汲み、蓋をきっちりと閉めた。それを持って台所を出、ハルの部屋に面した縁側に向かう。俺も付いていく。サキは縁側に座って脚を投げ出し、手入れを怠り気味の庭を眺めながら酒を飲んだ。昼の光が、縁側の木目をちょうど良い温度にしていた。俺はごろんと横になって眠る振りをしながら、相変わらずぼんやりしているサキを横目で見る。サキは先程と同じく宙を見ながら口を開いた。
「あのさぁ、ソラ――猫には霊が見えるって、本当?」
 俺は返答を尻尾を揺らすだけに留める。鳴いてやることもできたが、人間というものは都合が良い生き物だ。俺がにゃあしか言えないのを良いことに、鳴き声を自分が求める意味合いに捉えてしまう節がある。だから誤解を招かぬよう、俺は依然として猫の狸寝入りを続けた。
 確かに、人間には見えないものを目で追ってしまうことはある。しかしそれは精々埃や小さな虫で、この世の物でないものが見えているということは実際には無い。例えそれが、つい先日までここで暮らしていた家族の霊であっても、だ。
 しかし、そう聞いてしまうサキの気持ちも、俺はよく理解していた。ハルがいなくなってから、この家の中は生け垣に残された蝉の抜け殻のようだ。サキもサキの両親も、ハルのいない日常をもてあましている。そして、それは俺もまた同じだった。
 俺の狸寝入りに引っかかり、サキは口を閉ざした。ちょうど俺がこの家に来た頃、まだ子供だった時のように脚をぶらぶらさせて、ハルが遺した梅酒をぐいぐいと飲み続ける。一度立ち上がり、台所で二杯目を汲んできた。そんな速さで呑んでいれば、すぐになくなってしまうぞ。もうそれを作れる者はいないというのに。
「ソラ? 寝ちゃったの? ねぇ」
 酒を呑んだ所為なのか、サキの口調が変わった。殆ど自棄の勢いで、酔っ払いは俺の背をぐりぐりと撫で回す。これが寝たふりでなければ、俺はきっと跳ね起きて指の一本でも噛んでやっていただろう。けれど俺は我慢する。俺の背を撫でることで、少しでもサキが慰められるならと思うからだ。
 サキはしばし俺の大事な毛並みを混ぜっ返し、ついには飽きて手を止めた。身体を投げ出して倒れ、もう一度、今度は素面の時の仕草で静かに俺の毛を梳かした。
「ソラ、私、これから何したらいいんだろ」
 答えられるはずもない。
 サキにとって、ハルは全てだった。絵描きになることを夢見て家を出、挫折して帰ってきたサキにとって、年老いたハルの世話は、絵を描くこと以上のサキの生きる糧になっていた。
「帰ってきて、おばあちゃん……」
 譫言の後、サキは寝息を立て始めた。眠りながら、閉じられた目蓋から涙が滲み出てくる。
 にゃぁとも言えない。俺は狸寝入りをやめ、しばし静かに涙を流すサキの寝顔を見た。そして俺は、痛いほどに思い知る。
 いくら飼い猫といえど、所詮俺は言葉を持たぬ。もし俺が人間だったなら、サキを慰める言葉の一つでも音に出来たはずだ。問いに無意味な鳴き声で答え、黙って撫でさせることしかできない自分を、俺は照りつける日に焼かれる速度で悔い惜しんだ。野良にはこの気持ちはわからないだろう。生まれた頃から飼われ、俺は人間と生きることが猫の幸せだと思い込んで生きてきた。けれど、果たしてこれは本当の幸せなのだろうか。
 俺も本当に寝てしまおう。免罪符のごとくそう思った時、何やら懐かしい、日光の温度ともサキの手とも違う柔らかな暖かさが、俺の背に触れた。
 顔を上げ、目を疑う。
 庭に降っていた陽の光が、見覚えのある姿に歪んでいた。
 ハル?
 もはや懐かしく感じるその像は、生前と全く変わらぬ顔で笑った。縁側に浅く腰掛け、隣で眠るサキをゆっくりと撫でる。まるで赤子をあやすような慣れきった手つきだ。口のあたりを動かして何かを囁いた後、それは霧が解かれるようにすっと初夏の空気の中に散った。
 俺は瞳孔さえも大きく広げたままそれを見送る。まさか。入れ違いに、横で寝息を立てていたサキが目を擦りながら起き上がった。
「ああ――昼間から飲み過ぎちゃった」
 そして、先ほどとは打って変わった嬉しげな手つきで俺を抱き寄せる。
「聞いてソラ、夢におばあちゃんが出てきたんだ。有り難うって。サキはこれから何でも出来るよって。何があっても頑張れるよ、だから好きなことしなさいって、おばあちゃん、伝えてくれたよ。本当に……私、また描いてみようかな。絵……」
 涙ぐむサキから、俺は視線を庭に戻した。信じられない。今の光はハルだったのかもしれないし、西日に変わりつつある光が、屈折か何かの具合で見せた幻影だったのかもしれぬ。酒の匂いに、俺自身も酔っていた可能性もある。けれど俺には、確かにハルのように見えた。
「ソラにもわかった? 今ここに、おばあちゃんいたよね?」
 真昼の雲の合間で光が揺れる。俺はそれを見上げながら、サキの腕の中でにゃぁと鳴いた。

(春は空の中--FIN.)