hello, my sweet dreamer.

 最高の三回忌に、乾杯!

 つい十三時間前まで足を付けていたはずの大地が、今は遙か遠くに広大な弧を描いている。ひたすら青くだだっ広い海と、散り散りに飛ぶ積乱雲のかけらたち。それらを縁取る大気は、絶望さえも含む宇宙の闇を空と呼ばれるものへと希釈させていた。
 分厚い窓硝子越しに見る、ジオラマよりも小さくなった日常世界。フィィィィィィィンという独特のエンジンの音が、鋼鉄の装甲を伝って耳に届く。一人乗りではあるが、現在の民間の技術を最大限に組み合わせた小型の宇宙シャトルだ。ただ折角の無重力空間ではあるものの、このコックピットにはそれを楽しむ程の広さは無い。シートに深く腰掛けてベルトを締め、俺は数分後を待ちきれず踊り始める胸を鎮めた。目の前のディスプレイの端に赤いランプが灯る。地上からの通信だ。通話をオンにすると、聞き慣れた掠れた声が流れ出した。
『ハロー、ハロー。佐伯(さえき)飛行士、聞こえていますか?』
「ハロー、ハロー。こちら佐伯。聞こえております。視界良好。エンジンも異常無し。地球は申し分なしの青であります」
 スピーカーの奥で、男の声がくくっと笑った。特に可笑しいことを言ったつもりは無いが、まぁいい。この男篠田(しのだ)は昔からの悪友であり、俺の三年越しの無謀な計画に協力してくれた恩人でもある。
『お前が無事にそこに行けて良かったよ。俺も、今日は呑むことにする』
「そうだ、呑め呑め。俺がここにいるのも、お前のおかげだ」
 その時、視界の端に青白い光を見た。はっとして確認する。予定より二分十四秒早い邂逅。間違いなく、あれは俺が三年間待ちわびてきたものだ。
『来たな』
「ああ――」
『邪魔者は退散するよ。二人の時間を堪能してくれ。良い三回忌を』
「有り難う」
 俺の礼を聞くやいなや、篠田は回線を切った。俺は硝子越しに漂う青いそれに寄り添うようにシャトルの軌道と速度を調節する。つるりとした流線型の、半透明のシールドに青い光が当たった。
「久しぶりだな。無事にこの日を迎えられて良かった」
 丁度人一人が横になれるほどの大きさのカプセルだ。白い花が敷き詰められ、その上には――純白のドレスに身を包んだ花嫁が、微笑を浮かべたまま眠り込んでいる。
「――青葉(あおば)」
 聞こえるはずの無い距離を挟んで、俺は彼女の名前を呟いた。
 死んだら宇宙に行くって、本当かしら。
 硝子越しに寝顔を眺めながら、俺は思い出している。暗い夜の部屋で、幾度となくこいつが呟いたことだった。毎晩必ず訪れる、悪夢のような発作のあと。荒い呼吸、跳ね回る身体。縋るように俺の腕を掴む痩せた手は、夜を越すごとに力を失っていった。
 三年前に差されたままの紅が、もう温度を持っていないはずの頬を彩っている。死んだら綺麗に化粧をして欲しい。俺と結婚した時に母親から受け継いだドレスを着せて、白い薔薇と百合で棺をいっぱいにして欲しい。そんなことを言うこいつを横目に、宇宙と結婚するみたいだな、と冗談交じりに言ってしまったことを俺は覚えている。
 青葉は物理と天文の知識は人一倍持っていたが、世間一般の常識というものについてはからっきしだった。けれど、俺はこいつのそういう欠点にさえ惚れていたのだ。昔から理想主義で、自分の好きなことにはがむしゃらに夢中になる奴だったし、俺はそんな青葉に振り回され、セーブしてやるのが自分の使命のように感じていた。骨の髄から空を愛し、宇宙を愛し、研究に命を注いでいたこいつのことを、俺は誰より好きだった。だから呆れつつも、こいつが埋められたり燃やされたりすることを望む訳が無いことくらい最初からわかっていたのだ。
 結局、強い希望に俺は折れ、今青葉はこうして宇宙空間を飛んでいる。当然親族には猛反対された。人間じゃ無いとまで言われたが、他人からどう思われようが構わない。死んだ妻の遺体を冷凍保存して、人工衛星もとい人工スペースデブリとして宇宙に流すという気のふれた行為を、俺はこいつに捧げる当然の餞(はなむけ)としてやってのけた。
 青葉は本当にただ眠っているだけのように見える。キスでもしたら起きるだろうか。大昔に読んで聞かされた、童話の中のヒロインみたいに。灰にも骨にもならなかったから、青葉はまだ俺の中では死んではいない。齢三十も過ぎた俺だけの姫君は、今もまだ美しく微笑んでいる。
 ハロー、ハロー。佐伯青葉博士。聞こえていますか?
 これからの宇宙の旅、どうですか? 幸せですか?
 そして、幸せでしたか?
 俺といて。
 口の中で呟き、自嘲する。いつの間にか溢れていた涙の粒が、星屑のように宙に散らばっていた。今更何を泣いているんだ。俺は祝うために、けじめを付けるためにここに来たのに。
 青葉を乗せたカプセルが、ごうんと震える。あそこに搭載したこいつの研究の結晶、重力制御式稼働装置(グラビティ・ドライブ)の動力としての寿命はちょうど三年。地球の重力に準じて周回していたカプセルは、たった今外界へと解き放たれる。隕石や他のデブリとの衝突もなく、綺麗なままで今日を迎えられたのは幸運中の幸運だ。そしてこの日のために、俺はこの三年間をただ飛行士になるためだけに注ぎ込んできた。
 シートの横に縛り付けていたバッグから、淡いピンクのワインが入ったナイロンパックを取り出す。本来宇宙空間での飲酒は禁止されているが、今日のために篠田が極秘で加工してくれたのだ。青葉が好きだった銘柄で、お互いの誕生日、プロポーズした日、結婚初夜、式の日、青葉の論文が賞をとった日、博士号を貰った日、最初に開発したシャトルが宇宙へ向かった日、そして、一緒に過ごした最後の夜。俺と青葉の全ての記念日を共にした、甘酸っぱいブラッシュだ。無重力中に散らばらないようにキャップは閉じたまま、俺は硝子越しに漂う青葉に向かって傾けた。
 最高の三回忌、そして、お前の新しい門出に。
「乾杯」
 一気に飲み干した。本物よりも水っぽいが、青葉が好きだった味わいはちゃんと俺の身体に広がっていく。その時、動力が最後の力を振り絞り、彼女を闇へと優しく押し出した。カプセルが傾き、青葉は太陽の白い光を浴びて輝く。それは驚くほど静謐な、そして神聖な光景に見えた。紅色の頬と唇をし、微笑んで目を閉じる青葉は、まるで遙か昔の結婚式の日のようだ。
「綺麗だよ、青葉」
 そう言った俺に、記憶の中の彼女は美しく笑い返した。
――でしょう、春仁(はると)。覚えていてね、ずーっと。
 ああ。ずっと覚えているさ。お前の居場所も笑顔も夢も、俺は絶対に手放さない。この命が尽きるまで。
 舌の上に残った淡い酸味が、青葉との思い出のようにすっと俺の体内に溶けた。短いランデブーを終え、深遠に向かって閃くカプセルの青。自身が生涯を掛けて求めた永遠の空の中へと、彼女は遠心力という風を受けて飛んでいく。子供の頃から夢見ていた宇宙旅行に、青葉は一足先に行くだけ。これは、祝福すべきことなのだ。
 おめでとう、青葉。
 そして、さようなら。愛する人。
 彼女の光が闇に消えるのを確かめ、シャトルは地球へと角度を変える。
 ほのかな酔いを感じつつ、俺は短い微睡みの中へと意識を沈めていった。

(hello, my sweet dreamer.--FIN.)
※こちらはフリーペーパーとして発行したものです。