RISING STAR

 どこまでも続くような、境内への長い長い階段を駆け上がる。
 一日中日光を受けてきた石畳は足の下で熱を放ち、夏ももう本番になってきたことをこちらに知らせた。振り返れば、そこには目も覚めるようなオレンジの西日が燃え、この高台から見下ろせる町全体を赤々と照らす。田んぼと山に囲まれたこの田舎町に、微かな夕風が清々しく吹いた。
 英行はその光景を見てふっと息をつく。部活で汗と泥にまみれた後にこの階段を上るのは正直辛いが、この景色を見ればそんな疲れは不思議と浄化されるのだ。町並みの美しさへの感嘆と、帰ってきたという安堵が入り混じったこの瞬間が、英行は一日のうちで一番好きだと思う。
 走り込みでばてた脚で残りの階段を上りきり、重々しく出迎える寺の門をくぐった。規模は小さいが町で唯一のこの古い寺は、あと数十年かすれば自分のものになるだろう――この門をくぐる度に、昔から言い聞かされてきたそんな事柄を思い出す。しかし、今はまだそんな感覚は全く無い。自分は万年補欠で、チビで、顔だって普通で、何の特技も無いただの高校生なのだ。
 この軽い自己嫌悪は、英行にとってはもうすでに習慣になっている。自分に何の取り得もないことなど、誰よりも一番よくわかっているのだ。そんな自分に重くのしかかってくる、この寺を継がなければならないという将来の義務。それへの不安。しかしその思考を一掃するように、夕風に乗った一筋のギターの音が、英行の鼓膜に涼やかに響いた。
 英行はハッとして、地面に敷き詰められた砂利を蹴って走り出した。寺の横をすり抜け、玄関から入らずに庭の中を通る。本堂を臨める縁側に着くと、その人物に聞こえるように大声を上げた。
「おい、天馬!」
 その瞬間、それまでずっと鳴り続けていたギターの音がぴたりと止まった。本堂の真ん中に立ち尽くしていた彼はゆっくりと振り向き、こちらを捉えてにこりと笑った。
「おかえり、英行。今日は早いんだね」
「ああ……明日、試合だから。早めに終わることになって」
 彼――時任天馬の笑顔に当てられ、英行は何となく視線を泳がせた。彼は幼馴染で、夕方この寺の本堂で一、二時間ほどギターの練習をするのが日課になっているのだ。使っているアンプは持参のものだが、律儀にも間借り兼電気代として月に二千円ほど納入してくる。この町にはスタジオというものは無く、思い切り音を出せる場所はここ以外に無いらしい。肩から提げられた彼愛用の木目のギターは、西日を受けて赤味を増している。ピックアップと弦が、チカチカと光を反射させた。
 英行は縁側に鞄を放り投げ、腰を下ろした。天馬はまた音を鳴らし始め、その振動でなのか、庭の真ん中にある池の水面が揺れる。天馬の音はだんだんとスピードを速め、最後にはこちらの耳では追えないような動きを見せて止まった。素人の耳には充分に上手く聞こえる音でも、彼にとっては不満があるらしい。何度も何度も、同じフレーズを繰り返し弾き続ける。
 天馬がギターを弾いている姿は、悔しいほど素直に様になっていると思う。ゲームの主人公のような端正な顔立ちに、すらりとした長身。細い体躯。ギターを弾く手の鮮やかさ。彼のパーツの全てが、自分とは全く違う次元のものだった。
「天馬、お前さぁ、奥村さんと付き合ってるってほんとか?」
 ちょうど音が途切れるタイミングを見計らって、英行は彼に聞きたかったことをたまらず口にした。つい先ほど、部室で同級生から聞いたばかりのことだ。
「奥村さん? ――ああ、うん。そうだったな」
 天馬は視線を手元から上げて、何でも無いような口調で答えた。
「そうだったな、ってお前」
「球技大会の時だったっけ。確か、そういうことは言われた気がする」
 奥村さんというのは、同じ学年の中でも一番くらいに可愛い女生徒のことだ。細くて、目が大きくて、髪もサラサラで。補欠でチビな自分なんか、視界にすら入ってないのであろう女の子。そんな彼女が、自分の相手として、今目の前にいる天馬を選んだという。
「……球技大会って、二週間くらい前じゃん」
「うん? そうなるのか」
 ギターのことばっかり考えすぎて、こいつには時間の流れさえも普通とはズレているらしい。本気で曖昧そうにしている天馬に、英行は少し苛立ちを覚えた。
「お前と奥村さん、話してるとこなんて一回も見たこと無いけど。一緒に帰ってもないし」
「……? 一緒に帰るって、何でそんなことしなきゃいけないんだろう」
「はぁ?」
 予想外な天馬の答えに、英行は思わず素っ頓狂な声を上げた。何でって、普通そうだろう。身の回りにいる彼女持ちの友人は、皆カップルで並んで下校している。そういうものじゃなかったのか。
「だって俺、ギター弾きたいし」
 そして続いて降ってきたその言葉に、英行は更に驚愕を覚えた。
「ギター弾きたいしって、お前」
「一日に最低二時間は指動かさないと、次の日には感覚全部抜けてるんだ。それで普通のギタリストレベル。俺はもっと上手くなりたいから、その三倍は練習しなくちゃいけない。でも、今だって全然時間が足りてないんだ。一緒に帰ったりして相手してる時間は無いかな」
 そう言いきる天馬の表情は、ぎくりとするぐらい鋭い。
「……じゃあ、何でOKしたんだよ」
 彼の気迫に気圧されながら、英行はぼそりと呟いた。しかし、その問いは彼には届かなかったのだろう。答えは無く、また先ほどと同じギターの音色が鳴り響く。
 まぁ、何となくわかる。こいつのことだから、きっと深く考えず話に合わせて流されたのだろう。若しくは、彼女が勝手に断定したか。ギターのことに対しては異常に神経質なくせに、興味の無いことに関してはかなり適当なのだ。こいつは。
 しかし思う。彼女はきっと、天馬の見かけしか知らずに――見かけだけで彼だと決めて、交際を申し込んだのだろう。それが俄かにわかって、英行は彼女に少しだけ落胆した。
 自分は、他の誰よりも天馬のことをよく知っている。こいつがどれだけギターが好きなのか。握力をつけるために授業中に机の下でラバーグリップを握っていること。上京する資金を稼ぐために、土日は早朝からバイトに出ていること。毎朝この長い階段を上って、ここまでギターを預けに来ること。弾きすぎて指先から血を出していたことも、その手が震えていたことも、彼女は当然知らないだろう。しかし、本当はそういう奴なのだ。
「お前ってさぁ、ほんとに他の奴と違うよな」
 今度は聞こえるように言ってやる。すると天馬は音を止め、不思議そうな顔でこちらに振り向く。
「そうかな」
「だってお前、すげーじゃん。色々と。俺なんてチビだし、顔も良くないし、坊主だし、万年補欠だし。徒名だってクリリンだし。お前見てると、全然世界が違うんだなって思う」
 そう言うと、天馬は少しだけ苦笑した。
「野球部なんだし、英行が坊主なのは仕方ないって。それに俺は、悟空とかよりもクリリンの方が好きだけどな。だってクリリン、地球人なのにサイヤ人と互角だし」
「それ、あんまりフォローになってない」
 英行はため息混じりに天馬の話を遮った。いくらクリリンがサイヤ人と互角だからって、こちらが天馬と互角というわけでは決して無いのだ。英行は彼に背を向け、再び大きなため息をついた。
「……でも俺、そっちが万年補欠でもずっと野球やってるから、こうやってギターも続けれてるんだよな。毎日帰る時に、英行がグラウンドで練習してるの見てる。そしたらなんか、俺もギターの練習負けてらんないなって、よく思うし」
 背後から聞こえたその天馬の言葉に、英行は思わず顔を上げた。こいつは、時々こちらの心をそのまま読んでいるようなことを言う。そうだ。自分だって、天馬がギターをやめないから野球を続けているのだ。
 ――こいつだって、自分と、同じなのだ。
 突然、天馬が鳴らしていた音色が変わった。今の時刻の空によく似合う、空に駆け上がっていく星のようなメロディ。天馬がかなり気に入ってよく弾いている曲で、確か『RISING』というタイトルだったはず。元の曲は、聞いたことも無いのだが。
 空は先ほどまでのオレンジを沈め、すっかり藍色を称えだしていた。その真ん中に、たった一つの小さな星が見える。あれは、今この天馬の音に誘われて出てきたのかもしれない。風よりも色よりも速く、天馬の音は空へと届くのだ。そして自分は、誰よりも多くこの音を聞いてきた。
 英行はそう思いながら、夜闇に光る一筋の光を見た。

(RISING STAR--FIN.)