階層硝子都市--サイレントストレイドッグズ

 早く、あの子に会わなければ。
 彼女は虚弱した前脚を踏みしめ、ひたすらに黒く広がる虚空を見る。
 摩天楼によって速度を増した風が、彼女の鋼の体に当たっては砕ける。燐粉のようなネオンの光、賑やかに響く人々の声、音。しかし、その全てが彼女には分厚い壁の向こうのことのように思える。この世界は常に寒く、何千何万という人間を孕みながらも、温度というものをまるで感じさせない。生き物のように白い息を吐き、彼女はその尖った耳をじっくりと澄ます。
 早く。早く、あの子に会わなければ。

「お前って変わってるよな。本なんて俺、買おうと思ったことも無いぞ」
 隣を歩くラグが呆れたような口調で言った。リデルは周りの人ごみに紛れてしまわぬよう、彼とはぐれてしまわぬように注意しながら、つい先ほど購入した分厚い本を胸にぎゅっと抱え直す。フラディカから定期的に貰っている小遣いによるが、初めて自分の手で買った代物だ。
「えへへ。でも僕、ずっと欲しかったんだぁ。ありがとうラグ」
「……ふん。別に、俺は連れてきただけだし」
 こちらの言葉に、ラグはいつもどおりの口調で返し視線を外す。あの夜に初めて会ってからまだ数回しか遊んでいないが、彼のこうした素直でない性格にリデルは既に気が付いていた。礼を言われたり褒められたりするのが苦手で、そうされると困惑を隠すようにわざと少し不機嫌そうに振舞う。しかしその反面、こうして自分の我侭に付き合って買い物をしてくれたりもする優しい面もある。
 リデルは少し前に、ツェンによって核からフラディカの元に住処を移された。それだけでリデルの世界は引っくり返したように大きく変わったのだが、ラグと出会って更に大きくなったのだ。決まった住処もなく自由そのものに暮らしている彼は、当然リデルの知らないことを多く知っている。知り合いや顔の利く店も少なくは無く、あの店の親父は金属の欠片を集めれば食料をくれるとか、この橋を渡るときは駆け足になるのがルールだとか――そうした他愛もないことでも、彼からものを一つ教わるたびに、リデルの世界は広く深くなっていくのだ。
「おーい! ラグ! 今日は手伝ってかないのか?」
 前方からそんな声が聞こえて前を見ると、渡ろうとした橋の上で露店を開いていた老人が、こちら目掛けて大きく手を振っている。老人に名を呼ばれたラグは、少しだけうんざりしたような顔を作りながらそちらへと進行方向を変えた。行き来する人ごみを掻き分けながらリデルもつられて彼の後に続く。
「何だよジジィ……今日は連れがいるんだ。今度な今度」
「なんだ、その可愛い子は。デートか? いの間に彼女なんて作ったんだ」
 こちらが近づくなり、老人は目を丸くしてラグとリデルを見比べた。彼が路上に向けて広げている布の上には、色とりどりの瓶詰めになった飴が競うように陳列されている。リデルはそれらを見るなり「わぁ」と感嘆の声を上げた。瓶の大きさも中身の飴の色も様々で、琥珀色ばかりが集められたものや、七色が混合されているものまである。それらの全てが、街の照明の光を受けてキラキラと輝いていた。
「彼女じゃねぇよ。こいつ男だし」
「何だとぉ!? そうなのか、お嬢ちゃん」
 老人がそう声を上げ、リデルは初めてちゃんと彼の方を見た。帽子を深く被り厚手の布を纏った小柄な老人は、小さな目を凝らしてこちらを眺めている。二人の会話を聞いていなかったリデルは、彼の意図がわからずに首を傾げた。ラグが飽きれたように付け足す。
「女の格好してるだけだ。――こっちはロブ爺。たまに世話になってる」
「たまにじゃない。いつもだ!」
「毎日来てるわけじゃねーだろ! それに俺が世話してる時もあるつーの」
「老体は言われんでも大事にするもんだわい。で、こっちのお嬢ちゃん……じゃない、僕は?」
「あ、僕、リデルっていいます」
 ラグとロブの会話に気圧されつつ、リデルはぺこんと頭を下げる。翁はそんなこちらを見てにこりと笑い、売り物の中から瓶を一つ持ち上げた。中には白い真珠のような飴が詰まっている。
「ラグと仲良くしてくれて有難うな。これ、後で二人で食べたらいい」
「わぁ……! 有難うございます」
「……ふん」
 リデルが嬉しそうに瓶を受け取るのを見て、ラグはまたわざと不機嫌そうに視線を外した。が、そんな彼に向かってロブは口を出す。
「ラグ。今日は遊んだらいいが、明日は手伝ってもらうぞ」
「はぁ? 絶対嫌だ」
「!!?? 明日は忙しいんだぞ!! デモンストレーションだと知らんのか!!」
「知らないわけないだろ! だから嫌なんだよ!!」
「……あの、でもんすとれーしょんって何?」
 睨み合う二人に、リデルは外野から恐る恐る聞いた。数日前から度々耳にする言葉だが、そういえば自分はその意味を知らない。ラグは少し呆れ顔でこちらに向き直った。
「お前、それも知らなかったのか……。フェザーモートのチャンピオンが、決勝で使うコースを走るんだよ」
「ただチャンピオン走るだけなんだが、日付が変わる頃には街は祭になっとる。予選も終わって、いよいよ正式にレース大会が始まるんだからなぁ。わしのこの仕事だって、一応忙しくなるんだ。だのにこの悪ガキときたら…」
 ロブは横目でラグを見る。彼はそれに気付き、ぷいっとそっぽを向いてしまった。
「はぁ、でもまぁせんない。ラグはヴァルガの大ファンだからな」
「!!!! ち、違うっつーの!!!! ファンじゃねぇよ!!!!」
 そっぽを向いていたラグは突如振り向き、赤面しながらそう叫んだ。レースのことにはあまり詳しくないリデルでも、ヴァルガのことは知っている。今のフェザーモートレースのチャンピオンで、アロマ――フラディカの家に度々遊びに来る整備士の青年――が、よく口に出す名前だった。
「でもなラグ、今回はやっぱり手伝ってもらうぞ。今、この辺りに危険なリヴィングロイドがうろついているらしい。今日だって、お前が来るまでに三件も被害の噂を聞いた」
「そんなもん、大丈夫だろ。何年こういう生活やってると思ってんだ」
「またそんなことを……リヴィングロイドにだってなぁ、色々おるんだぞ。お前が今まで会わなかっただけで、人に危害を加えるほどの奴がその辺をうろついとったって、全然おかしいことじゃないわい」
 リヴィングロイドとは、この街のいたるところに住んでいるアンドロイドのことだ。人間と同じかそれ以上の知能を持つ者から、動物レベルの能力の者、また外見もそれに囚われずに様々な者がいる。多くは人間と共生をしているが、稀に野良として生活する者もいる。しかし大抵の気性は大人しく設定されており、人間に危害を加える者は少ない――とフラディカが言っていたことを、リデルは思い出した。フラディカは何度かこのリヴィングロイドの開発に関わったことがあるらしく、これに関する本も何冊かあったように思う。

 その時。突然リデルの鼓膜に、強い耳鳴りがキンと走った。
「……?」
 まだ何かを言い合っているラグとロブを尻目に、リデルは背後の人ごみを見る。一瞬で空気が冷たくなった感覚。視界はモノクロになり、少しだけ眩暈を覚えた。
 ―――――リデル。
 女の声。機械的な、しかしどことなく体温のありそうな美しい声音が、はっきりとこちらの名を呼んだ。
「……誰?」
「あ?どうしたリデル」
 無意識に呟いた言葉にラグが振り向き、リデルの視界はやっとカラーになった。しかし同時に、周囲の人ごみが急にざわめき始める。
「何だ……?」
 橋の奥から聞こえる悲鳴と、次々に駆け出していく人々。眉をひそめたロブが、傍を駆けていた青年を一人呼び止める。
「どうしたんだ?」
「リヴィングロイドだ。ここ数日被害を出してた奴。こっちに向かってくる! じいさんも早く店をしまうんだ」
「何――?」
 ロブが応えようとした瞬間、背後で何かが壊れる音が聞こえた。見ると、黒い機械の塊が橋のフェンスを壊し、禍々しい起動音を上げている。それは甲虫のような形をしており、人一人は簡単に押し倒せそうなほどには大きい。壊されたフェンスだったものは眼下に溜まった深い闇へと落ちていき、恐れをなした人々は縦横無尽に逃げ惑う。黒い塊はガクガクと震えながら、八つの脚を器用に動かして方向転換をした。黄色い目のようなセンサーが、人ごみを掻き分け、まっすぐにこちらを見た、気がした。
 ―――リデル。
 先ほどと同じ声が鼓膜に聞こえ、リデルの体中にゾッと悪寒が走った。呼んでいる。こいつが、こちらを呼んでいる。
「リデル!! 何してんだ!!」
 ラグの声が聞こえた。しかし、すぐ近くのはずのその声はとても遠く感じられた。耳鳴りは徐々に激しくなり、リデルは体中の力を失ってその場にへたり込んでしまった。リヴィングロイドはこちらを向いたまま甲高い機動音を上げ、噴射するような勢いでこちらに突進してくる。喉から息が漏れたが、恐怖のあまりに声にはならない。
 ―――リデル。
 呼ぶ声も止まない。同時にラグが何かを叫んだが、リデルの耳には届かなかった。嫌だ。怖い。自分は殺されてしまう。こいつは自分を襲いに来たのだ。それはいつも見てしまう夢と同じ、足元の床が崩れ落ちてしまう感覚と似ていた。黒い世界。足元に広がる闇は、死と痛みの色。それと同じ色をしたリヴィングロイドの巨体。距離。リデルは思わず、涙の出掛かる瞳をぎゅっと瞑った。
 ―――リデル!!
 自分を呼ぶ声が叫んだ。そして次の瞬間には、それすらも掻き消すほどの大きな爆発音。しかしリデルが覚悟していたような痛みは、不思議と来ることは無かった。周りは数泊の間しんとし、その後に次いで徐々にざわめきが近づいてくる。
 リデルはやっと目を開けた。何が起こったのか、自分ではまるでわからない。ただわかるのは、黒いリヴィングロイドは自分のほんの目の前で停止し、煙とわずかな火花を散らしてうずくまっているということ。そしてその傍らに――見たことも無い、銀色をした美しい獣が立っているということだ。
 よく見れば、それは正確には獣ではない。外見の所々に獣に模した体毛が埋め込まれているものの、顔や手足、胴体のパーツは鈍く光る金属でできている。それらの部位はネオンを浴びて銀色に光り、コバルトブルーの目はじっとこちらを見ている。耳は尖り、鼻は高く、それは以前に本で見た、狼という獣に似ている。
 ―――リデル。
 再び声が聞こえ、リデルははっとした。この声はこの黒いリヴィングロイドではなく、目の前に立つこの銀の狼だったのだ。
「君は……?」
 リデルは呆然と狼に問うが、言葉で返してくるはずが無い。腰が抜けたまま動かずにいると、背後から来たラグに肩を貸された。
「おい、大丈夫かよリデル。危なかったな」
「うん、でも、この子が……?」
「俺もびっくりした。こいつが上から飛んできて、この黒いのに突撃したんだ。知ってるリヴィングロイドか?」
 ラグも狼の方を見た。ざわつく周りの人々は、感嘆や不安を口々に囁いた。暴れるリヴィングロイドを制したのもまた、人外の姿をしたそれだったのだから。
「知らない。けどこの子は、僕のことを知ってるかもしれない」
「はぁ?」
 ラグやロブ、周りの人々が息を呑んで見つめる中、狼は未だリデルを見つめながら、すっと一歩だけこちらに歩み寄った。しかし急に力が抜けたようにぐらりとふらつき、そのまま床に崩れるように倒れこんだ。
「あっ……!」
 リデルはラグを振り払って狼に走り寄った。目は閉じていたが、リデルの気配に気付いたのだろう。彼――いや、きっと“彼女”なのだろう――はそっと目を開け、その青い瞳にこちらの表情を映した。

「……何があったんだ」
 目前の光景を見るなり、ノアは思わずそう呟く。リヴィングロイドが暴走して公共物を破壊したという情報が核に入り、すぐに駆けつけたが、着いた頃には後の祭りだった。暴走していたという黒いリヴィングロイドは、物凄い勢いで何かが追突した跡を残して倒れ、周りには破壊した橋の欠片が散らばっている。
「ノア様。話を聞いてまいりました」
 聞き込みに回っていた部下の一人が、すっとノアの傍らに来て報告を始める。
「このリヴィングロイド――通行人の少女を襲った際に、他のリヴィングロイドに追突されて倒されたそうです」
「他の?どういうことだ。そのリヴィングロイドは立ち去ったのだろうか」
「それが……そのリヴィングロイドも動作を停止させ、襲われていた少女が連れ帰ったようです。銀色の外見をした、犬型のもので」
「犬型? 銀色の……?」
 微かに嫌な予感がする。ノアはもう動かなくなった黒い機械の塊を見つめ、もう途切れ途切れになってしまった記憶の端を手繰った。摩天楼の間を通り抜ける風が、ざぁっと耳の傍を掠める。そして、自分の足元に一冊の本が落ちていることに気が付く。
 誰かが落としていったのか――茶色の革張りの分厚い本。ノアはそれを拾い上げ、また小さなため息をついた。

(サイレントストレイドッグズ--FIN.)