階層硝子都市--アドーアインマイファイア

 自分は一生、あの時の感触を忘れないだろう。
 肩を掴んできた手の温度、引き寄せられた力の強さ。長い睫毛。彼の匂い。
 6年の月日を感じない。焼いて押された刻印のような、甘く、そして涙のような味の記憶。

 はぁっ、とアトリアはため息をついた。
 疲れきった脚をぺたんと床に下ろし、上体を後ろに投げ出す。いつも自分だけしか使わない小さな中継地。視界は180度摩天楼に囲まれ、ただ黒いだけの空は、それらに削ぎ落とされたように多角形を成していた。こうやって空を見るたびに、自分はとても狭い世界にいるような気がする。手のひらを掲げただけでも殆ど隠れてしまうその空は、悲しいことに他の表情を知らない。
 階下で犇く機械の音が、背中を伝って重々しく耳に響く。この街の冷たい鼓動。
 アトリアはそこに横たわったまま、傍らにある大きな鋼の塊を見た。鈍い光沢を持つ暗い赤で塗装されたそれは、美しくも攻撃的な流線型をかたどる。自分が長年手塩にかけて調整し続けているフェザーモート、その名をブレイズ――この街で一番速く、彼を乗せて走ることのできる唯一の機体だ。そして、自分の分身。自分は毎日欠かさずこいつに触れ、温度を確かめ、対話をする。自分の体調が悪ければこいつの調子も悪いし、こいつの機嫌が悪ければ、こちらだってあまり良い気でいられない。そしてそれらは全て、彼の走りにも影響を及ぼしてくる。
 彼は間違いなくこの街で最速だ。この6年間、彼よりも速い選手をアトリアは見たことが無いし、彼は今でも自己新の記録を進行形で作り続けている。しかしどれだけ速くても、同じ結果は二度と出ない。数値の上のタイムでは同じ結果でも、いつも同じコンディションとは限らない以上、内面的な優劣は必ずここに付き纏う。その理由は時に彼であり、この機体であり、自分でもある。
 アトリアはブレイズの一端に触れ、ぎゅっと目を瞑った。そういえば、自分は今のところ20時間ほど寝ないでこれと向き合っている。終わった瞬間に押し寄せてくる眠気は心地よいが、今この場所で寝てしまうわけにはいかない。せめて部屋に戻って、体中についた油の汚れや臭いを落としてからにしなければ。
 そこまで思って目蓋を上げると、このたった数秒の間でどこから出てきたのだろう。彼がすぐ傍らに立ち、じっとこちらを覗き込むように観察していた。
「わっ……!!」
「なんだお前、寝てんじゃねぇよ。こんなところで」
「ね、ねねね寝てない! 今起き上がろうと思ってたんだよ!!」
「は? 寝てただろ、絶対」
 彼はそう言って、相変わらずな特徴的な笑い方をする。口の端だけを吊り上げた、少しわざとらしい笑み。その口元に付けられた銀のピアスが、辺りのネオンを反射して光る。レース時に着るスーツではなく、白いシャツに細身のライダースジャケットという私服の出で立ちは、レーサーというよりもパイロットのように見える。片手には珍しく荷物をぶら下げているようだが、こちらからはあまりよく見えなかった。
 うるさいな。アトリアはそう呟いて立ち上がり、服に付いた埃をはたいて落とした。彼・ヴァルガは、その間も笑みを浮かべたままじっとこちらを見ている。何なんだ、あまり見ないで欲しい。アトリアはそう思いながらもいつもどおりに彼を無視し、周りにちらかったままの工具を片付ける。数年も毎日欠かさず顔を合わせているのに、彼の視線だけはどうも苦手だ。彼の方を向かないように意識して動いていると、背後からまた声が聞こえてきた。
「整備は済んだのか?」
「ああ、うん。今できたとこ」
「ずいぶん長い間やってたじゃねぇか」
「……明日が明日だし、あんまり手抜きたくないんだよ。あたしは」
「明日って。ただのデモンストレーションだろ。試合じゃあるまいし、いつもどおりで良いだろ」
 その言葉に、アトリアは初めて彼の方をちゃんと見た。またそんなことを言って。数年もトップでい続けている彼は――否、きっと元々の性格がそうなんだろうが――細心の注意を払うということが少し欠如している。それとも、こちらが神経質なだけだろうか。
 明日行われるデモンストレーションとは、フェザーモートレースの前年度チャンピオンが、決勝に使われるコースを試走するという行事である。たったの一人が走るだけなのに、街では毎年これに合わせた盛大な祭が催されるのだ。町中の人間がいたるところで飲み騒ぎ、固唾を呑んでスタートの合図を待ちかねる。そしてただ走るだけでなく、記録だってちゃんと取られて保存されるのだ。多くの選手達はその数字を目安に、今後の大会に挑む。
 そんな中で、そのチャンピオンの整備士である自分が、いつもどおりの仕事で安心できるはずが無い。
「そんなこと言ってると、記録落とすよ」
「はん。落とすわけ無いだろ」
 ヴァルガはさも当然のように言い切った。またそんなに自信満々にとアトリアは呆れたが、その反面、彼のこの自信の出所を他の誰よりもわかっている。6年間も自己新を延ばし続け、王座に君臨し続けることは、下からのし上がることよりも何百倍も過酷なことだ。ここまで来れば、コンマ一秒の差でも縮めるのが難しい。彼のこの自信はそれをよく知り、こなした上で出現する、ある種悟りのようなものなのだ。
 正直、アトリアはそんな彼に恐怖にも似た感覚を持っていた。底が見えないのだ。それは、ここから見えるこの狭い空にも似ている。一見しただけではわからない途方も無い奥行きを、ふとした瞬間に感じる名も無き畏れ。
 ヴァルガ。あんたは怖くないの? 明日何かが起こって、急に記録が落ちるかもしれない。次の挑戦者に、あんたを越えるほど速い選手がいるかもしれない。この先もずっとずっと、あんたが一番速いってわけにはいかないじゃない。もしも急に挫折をしたら、あんたはどうなってしまうの? あたしはいつだって不安だ。挫折に追い込まれて苦悩するあんたを想像するだけで、こっちは泣きそうになるほど辛いのに。
 アトリアはいつの間にか、動きを止めて俯いていた。彼と話をしていると、度々この思考に辿り着いて落ち込んでしまう。その上、メンタル的な弱さと彼への依存度が露呈されてしまったようで、なんだか悔しい気持ちになる。
「アトリア」
 不意に名前を呼ばれた。振り返ろうとすると、それより先に肩を捕まれ、凄い力で引き寄せられる。気付けばヴァルガの顔が間近にあった。上体を支えるように抱えられ、彼の銀色をした瞳は可笑しそうな色を湛えてこちらを覗きこんでいる。アトリアは半ば自動的に6年前のことを思い出した。彼の手の温度も、あの時と全く何も変わっていない。長い睫毛と微かな甘い香水の匂い。そして鮮明に蘇る、唇同士が触れ合う感触。
「っきゃああぁぁああ!!」
 アトリアは跳ね返るように彼から離れた。心臓が信じられない速さで暴れ、血の温度が数度ほど上がる。6年前に彼がチャンピオンを勝ち取った時も、全く同じような形でキスをされたのだ。温度も、匂いも、こちらを見るその表情さえも――彼はあの時からまるで変わっていない。
「そんな湿気たツラすんな。お前がそんなだったらブレイズの調子も狂う。俺のこと言えねぇぞ」
 ヴァルガはそう言ってこちらの額を小突いた。お前の考えてることぐらいすぐにわかる、そう言いたいのだろう。額を押さえたアトリアに、彼は片手に持っていた黒い紙袋を投げて寄越した。
「何、これ」
「明日は祭だからな。それ着て出て来い。その汚ねぇ作業着よりはマシだろう?」
 中身を見ると、それはアトリアが着たことも触ったことも無いような美しいパーティードレスだった。ブレイズとよく似た、鮮やかで品のある赤。
「たまにはコーウェンのお嬢でも見習え。俺が見立てたんだから、似合わないわけが無い」
 そう言い残し、ヴァルガは颯爽とヘルメットを装着してブレイズに騎乗した。スタンドを蹴って外すと、嵐のような轟音でエンジンを奏でる。次の瞬間には彼は機体ごと急上昇し、あっという間に闇空の彼方へと消え去ってしまった。
 そうだ。彼はレースのチャンピオンである以前に、自分自身に打ち勝つことのスペシャリストなのだ。これからも彼と同じ道を歩いていくのなら、自分だって強くならなくてはいけない。
 アトリアは渡されたドレスを汚さぬようにそっと抱え、再びこの狭い空に手を伸ばした。

(アドーアインマイファイア--FIN.)