階層硝子都市--メモリーアンドブルーリーレイ

 エメラルド色の光を受けながら、少女は眠りについている。
 この大きな硝子の窓越しに、自分はどのくらい長い時間彼女を見てきただろう。彼女は瞼を閉じたまま、歳を取ることも成長をすることもなく、ただただ穏やかな眠りを続けていた。彼女の繋がれた数々の機械のケーブルや薬品を流す管、寝台に溢れるほどに敷き詰められた薔薇の造花が、ぼんやりとした照明を受けて妖しく発光する。それはとても神秘的な光景だ。鳥篭のようなこの都市の中心。この『核』と呼ばれる巨大な球体のほぼ中央にある、この広く暗い密室。彼女は自分が生まれる前からここに居て、その閉ざされた瞳で世界の全てを見続けているのだ。
 彼女はごく稀にこちらの脳に触れる。自分が彼女と意思疎通のできる数少ない人間の一人だということに気がついたのは、物心がついてしばらくしてからのことだ。彼女の語るその言葉は時に他愛も無いこと、また時には神託のように高尚な言葉であり、彼女は見た目よりもずっと老成した人物だということがわかる。
「おい、ノア」
 つい彼女に気をとられ、すぐ傍に人が来ていることに気がつかなかった。聞き慣れたその声に振り向くと、背の高い金髪の男が硝子にもたれて立っている。自分と同じくここ核の構成員であるキルシュだ。
「やっぱりここにいた。探したんだぞ」
 核は都市の殆どの機械構造の主動力を担っており、キルシュはその全てを仕切る技師長を務めている。ここに来てからまだ6年と古株ばかりの幹部の中ではキャリアはまだ浅い方なのだが、自分と同じ歳ということもあってか、今では気兼ねなく話せる数少ない人間の一人だ。
「ああ…」
「どうした? またお姫様の声が聞こえたのか。大事な話か?」
 こちらが答えを濁していると、キルシュは冗談めいた口調で的を得てきた。彼女と意思疎通ができる自分の能力は、核の構成員ならば誰でも知っている。
「いや、それほどのことではない」
「ははん、またピアノを弾いて欲しいとかそういうのだろ。好きだもんな、お前のピアノ。議会中でもお構い無しに言ってくる。まったく我侭なお姫様だ」
「ふ……有り難いことだよ」
 キルシュの茶化した台詞に少しだけ苦笑を返し、ノアはまた彼女を見た。彼女が自分に好意を持ってくれていることはわかっている。自分の弾くピアノの音色はこの世界という密室で唯一感じられる色彩だと、彼女には何度も言って聞かされた。この世界の中心である彼女にそう言われることほど、核の構成員として喜ばしいことはない。そう、彼女に喜ばれるために自分はいるのだ。
「それでどうしたんだキルシュ。僕を探していたんだろう?」
「ん? ああ、そうそう」
 こちらにつられて彼女を眺めていたキルシュは、思い出したように片手に持っていた書類の束を軽く掲げた。鉛色の金属で作られた彼の義手が、通路の照明に反射して鈍く光る。
「次の議会の書類だ。じいさん達からお前に渡してくれって頼まれた。ったく、自分で渡した方が早いのによぉ」
 キルシュが上層部に対して愚痴を零すのはいつものことだ。ノアは彼の手からそれを抜き取り、最初の数枚だけにざっと目を通した。スレイブシンドローム、葬送者階下にて30名以上――
「スレイブシンドローム? これは…」
「おいおい、まさか議題を忘れてたなんて言うなよ。お前としたことが」
 こちらの怪訝な様子を見て、キルシュが呆れたように言った。
「まぁ確かに久しぶりに見るけどな、……この病気。葬送者が30人超えてるっていうのもひでぇ。動かないっつってもまだ生きてる人間を葬るんだからな……階下だったら仕方ないことかもしれねぇけど」
「……ああ、」
 キルシュの話を聞きながら、ノアは自分に対しての混乱を無理矢理に抑えた。そうだ。これは以前にも街で流行った病であり、今も数日前から議題に上がっている話である。しかし、彼の言ったとおり自分はこのことをすっかり忘れていた――否、忘れるといった軽いものではない。そういったものを越えた空白感を、彼は自分の脳裏に感じだのだ。
「前流行った時も酷かったし、お前がショック受けるのもわかるっちゃわかるけどな。そういやあの時はフラディカがまだギリギリここにいたな。これのことで出て行ったお前が帰ってこないって散々騒いで、外のこと何にも知らないくせに街に行って迷って……はは。そんなに昔のことじゃねぇのに、今じゃ考えられないよな」
「フラディカ……?」
 その単語を聞いて、心臓が急に重く波打った。
 フラディカ。どこかで聞いたことのある名前だと、一瞬そんな思考が頭をよぎる。
 懐かしく、美しい名前。しかし、そんな名前の人物など、
「……? は、なんだお前、覚えてないのか? フラディカのことだぞ?」
 こちらの異変に気付いたのだろう。キルシュはそれまでの表情を歪め、先ほどよりも更に怪訝な顔を作った。ノアの視界は揺れる。フラディカ。そうだこの身体は、確かにその人物を、彼女を知っている。しかし思い出そうとすればするほど、脳内の空白は大きくなり、

(メモリーアンドブルーリーレイ--FIN.)