階層硝子都市--メモリーアンドスカーレットアイ

「スレイブシンドローム?」
 聞き慣れない言葉に、フラディカは思わず彼を振り返った。彼は窓ガラスに軽く手のひらを当て、色とりどりに明滅するネオン達を見つめ続けている。普段なら穏やかなその紅い瞳は、いつにない険しさを帯びており、フラディカはそんな彼の眼差しに煙るような不安を感じた。すぐ近くを誰かのフェザーモートが滑走する鋭い音が聞こえ、彼はその音が静まるのを待って再び口を開く。
「今街で流行っている病だよ。さっきまでの協議で、やっとこの呼び名が付いたんだ」
「流行ってるって、あの、記憶喪失になっていく病気のこと?」
「そう。掛かった者の記憶が徐々に抜け落ちていって、最後には歩くことや食事をすること、息をすることまでも忘れて植物状態になってしまう。しかし、どんなに進行しても死に至ることは決して無い……恐ろしい病だ」
 彼はそう言って少しだけ俯き、窓ガラスに当てた手のひらにぐっと力を入れる。フラディカ自身はここ核から外へはあまり出歩かないため詳しいことは知らないが、今彼が言ったような病気が街のあちこちで確認されていることは耳にしていた。彼の役職は街の治安を守ることであり、住人の間で次々に広まっているらしいこの病気を見逃すことはできないのだろう。
「伝染病なの?」
「可能性はあるがわからない。空中を解してかかるウィルスの類が原因なのか、医療部の研究でも未だに解明できないでいるんだ。ワクチンの開発も同時に進められているが、それも滞っている」
「そう……」
 フラディカも視線を窓の外に移した。宙を支配する闇に街のネオンが幾重にも射し、巨大な高層ビルの影をぼんやりと縁取っている。何時までも何処までも続く闇に邪魔されて、この世界の全貌は未だに誰も見たことが無い。フラディカはそんな人間の、否、自分の無力さがとても憎らしく感じている。情報を知ることしかできない歯がゆさ、そしてそれを気に病んでいる彼の力になれないことの歯がゆさ。しかしこのことについてどうこうできるような技術を、今の自分は持ち合わせていない。
「私でも、何の力になれないのね」
 思わず呟いた言葉に、今度は彼がこちらに振り向いた。そして自分以上にこちらの様子が沈んでいることに気付いたのだろう、険しかった眼差しを少し和らげ、こちらに言い聞かせるように言った。
「いや、仕方が無いよ。これは君の専門とは全く違う分野の問題だ。それをそんなに気にするなんて、君らしくもない。君は君で、君にしかできない重要な役目を持っているだろう?」
「……だって……貴方がそんな顔をしているのに……」
 それだけで、自分は不安と無力さで頭がおかしくなってしまいそうだ――そこまで言ってしまいたかったが、その言葉は胸と喉の間で掠れて消えた。彼が、気を緩めたように少しだけ微笑んだからだ。
「真面目なんだな、フラディカは。僕の心配なんてしなくていいのに」
 そう言って、彼はこちらの髪をそっと撫でた。広くて温かい手のひら。自分の髪をこうやって撫でてくれるような存在は、この世界のどこを探しても彼しかいない。
「街で流行っていることも、それについての脅威も、勿論全てが気にかかる。だけど一番心配なのは、君がこの病にかかってしまわないかということなんだよ」
 フラディカは彼の目を見た。そこには先ほどの険しさは無く、ただただ優しく、しかしやり場の無い哀しみが、触れれば零れてしまいそうなほど溢れているように見える。ああ、やはり、自分は彼の力にはなれない。フラディカの唇から、不意に彼の名が零れた。
「ノア、―――」

 ――
 ――――
 ――――――――、、
 ――、、、 、――、 ブツンッ
 突然、目の前で動いていたコンピュータの電源が、重々しい音と共に立ち消えてしまった。
「! ………ああ、」
 フラディカははっと我に帰り、思わず嘆息の声を漏らした。窓の外のように暗くなってしまった画面は、もはや死人のように固くなっている。
 自分としたことが。こんな複雑なプログラムを組んでいる最中に、昔の記憶に浸ってしまうなんて。フラディカは珍しくコンピュータの前で放心し、キーボードから手を下ろした。薄暗い部屋は機械の光を失くして更に沈み、現実に帰ってきたはずの意識はまた記憶の余韻を掴んで放さない。
 彼の名を呼んで、自分はその後一体何を言ったのだったか。記憶の破片はノイズのように脳内を掻き乱す。彼の赤い目。街のネオン達。スレイブシンドローム。息をすることも忘れる病。無力さ。不安。それはやがてとてつもない胸騒ぎに変わり、首を絞められたような動悸が始まる。
「……フラディカ?」
 背後から聞き慣れた高い声が聞こえた。悪寒を抱えながら振り向くと、そこには一人チェスを嗜んでいたはずのリデルが、大きな目を驚きでいっぱいに見開いていた。
「フラディカ? どうしたの、大丈夫?」
 彼は白い駒を投げ捨て、すぐにこちらに駆け寄ってきた。少女同然の可愛らしい顔は、今にも泣きそうなほどに歪んでいる。
「だい、じょうぶ、よ。大丈夫」
 自分でも驚くほどに掠れた声で、フラディカはリデルを静止させた。心配そうにこちらを覗きこむ瞳は紅く、そう、彼と同じ色をしている。
「大丈夫、……何でもないわ」
 フラディカはその色に吸い込まれるように、その小さな肩に顔をうずめた。リデルは不思議そうに身を微かに揺らしたが、すぐにこちらの背を撫でるように手を回してきた。まだ幼い小さな手は彼とはかけ離れているが、確かに彼と同じ温度を感じる。
 ああ本当に、自分はまだ――。
 フラディカは自分が涙していることにも気付かず、ただぎゅっと瞼を閉じた。

(メモリーアンドスカーレットアイ--FIN.)