階層硝子都市--ナイトオンザオブラード

 街は今、深い霧の中にある。
 テレサはうつ伏せなままに、じっと白く濁る窓の外の色を見つめた。このクロスミストと呼ばれる不定期に発生する濃い霧は、一度街中を包み込んだらしばらくは晴れる気配を見せない。外の街を支配している闇もそれを彩るネオンの光も、今の霧の中ではとても遠くに感じられる。世界にこの部屋だけしかなくなったような、そんな不安定で妙な感覚。自分の頭はまだ、重いまどろみから完全に覚醒できていない。微かに鼻腔をくすぐる甘い匂いは、先ほどまで彼が吸っていた煙草の匂いだ。
「――クロスミストの間にさ、」
 こちらが目を覚ましたのがわかったのだろう。自分に重なるようにして眠っていたはずの彼が、何の前触れも無く耳元でそう呟いた。
「こういうことをすると呪われるんだって。テレサは知ってた?」
 言いながら、彼の長い指はこちらの髪を丁寧に梳く。その動作は優しくくすぐったく、テレサは先ほど開けたばかりの目をまたぎゅっと閉じ、小さく答えた。
「いえ……聞いたこと無いです」
「そっか。……まぁ何の確証も無いただの噂だけど」
「呪われると、どうなるんですか?」
「わからない。誰が呪うのか、どう呪われるのか、肝心なそういうことは全く載せられてなかった。無責任な話だね」
 彼はそう言って手を戻し、今度はこちらの下腹部の辺りをゆっくりと撫でた。こうして二人でぴったりとくっついていても、彼の手はいつも冷たい。しかし不思議と不快感は覚えず、むしろとても気持ちが良いと感じてしまう自分が、テレサにはよくわからないでいた。
 彼、ツェンがここに通うようになってから、まだ数ヶ月しか経っていない。
 ただ時間が余ったから来ただけだと、初めてここに来たときの彼は言った。その時は他愛の無い話を短時間しただけだったのだが、果たして自分の何が良かったのか、彼はそれから不定期ではあるが数日と空けずに、度々この部屋に立ち寄っている。しかしこうして他の客のように肌を重ねるようになったのは、それからしばらく経ってからのことだ。
 テレサはこの階下に住む、数多くいる娼婦の中の一人だ。階下から回廊に住む貧しい階級の女には、こうして仕方なく娼婦の肩書きを背負う者が多い。娼婦となった女にはここのような小さな部屋が一つずつ与えられ、客はどこからともなくこのことを知って足を延ばしてくる。しかし自分は娼婦になってまだ日も浅く、痩せて凹凸の少ない身体は客にとってはあまり好ましいものではないらしい。彼は自分にとって初めての常連客なのだ。彼は他の客と比べれば口数も少ない上、自分のことは殆ど喋らない。しかしそれ故にこちらのことも深く追求してくることも無く、いつの間にか傍にいて一番居心地の良い相手になっていた。
「クロスミスト自体にも、病気を呼ぶだとか人を攫うだとかいう噂が付いてるのは知っているよね。普段から考えたら異様なことが突然起これば、人は世界に対してとても不安になる。霧が掛かっている間に外を出歩く人は殆どいないだろう? 呑気に抱き合ってる場合じゃない、そんな奴らにはきっと罰が当たる――きっとそういう意味なんだろう」
 彼はそう言うと上体を起こし、うつ伏せだったこちらの身体を仰向けに直した。テレサの左目を隠そうと伸ばしている前髪が、はらりとシーツの上に扇のように広がる。幼い頃に視力を無くした左目は、白く濁って光も反射させない。自分はそれが好きではないのだが、彼は綺麗だと言い、度々こうして髪を払って覗き込んでくる。ふっと細めた優しい彼の目に、心臓の奥の辺りがじくじくと疼いた。
「じゃあね、テレサ、もしこの話が本当だったら」
 彼の冷たい手がこちらの身体に触れる。今すぐにでもキスができるような至近距離に、テレサは目眩のような熱を身体中に感じた。彼の唇が、ゆっくりと動く。
「僕と一緒に、呪われてくれる?」
 ――そして、彼の指先が、

「………っ、あ、」
 答えたはずの自分の声は、溜息のような小さな叫びへと変わった。
 外の闇は淡く、音も光も、彼を邪魔するようなものは全てこの部屋には届かない。
 街は今、深い霧の中にある。

(ナイトオンザオブラード--FIN.)