階層硝子都市--パラドクスオブユニヴァース

 ケージの中にそっと差し入れた彼の手に、一匹の蝶がふわりと留まった。
 鳥篭のようなそのケージの中に住む数匹の蝶は、大気中の構成分子の僅かな割合の差で、青や紫、更には白や薄桃色にと、とても多彩な色に変貌し発光し彼の手元を照らす。彼がわざとに部屋を薄暗くしているのは、飼っているこの蝶たちを美しく映えさせるためだ。蝶は彼の指からまた飛び立ち、淡い光の残る燐粉を美しく撒き散らす。
 フラディカは自宅から持参したコンピューターのケーブルを差し替え、軽くブラインドタッチをした。すると、ケーブルの中を青白い光が流れていく。その光の辿り着く先には彼の脳髄に埋め込まれたデータデバイスがあり、フラディカはそうやって彼と手に入れた情報を交換し合うのだ。
 しかし真横で他人がそういったことをしている間でも、彼――センリは手元にある分厚い本のページを実に落ち着いた手つきで捲り続けている。街の何処を探しても、彼以上の本の虫は見当たらないだろう。彼のこの部屋は数え切れない本で埋め尽くされており、それはここに来る度に紙の匂いにむせそうになるほどである。古書のほのかに黴臭い湿った匂いは、この街においてはとても珍しい類のものだ。
「……海」
 ページを捲る音がしばし途切れ、センリはぽつりとそう呟いた。その聞きなれない言葉に、フラディカは思わず彼を見上げる。
「今、何て?」
「今この本に出てきてるのよ。海。地表を覆う巨大な塩水の層ですって。面積は約3億6000万平方メートル、深さは最高でも6000メートル。凄いわね、プールみたいなものかと思ったけど、それどころじゃないわ」
 彼の掛けている眼鏡の細いレンズに、蝶達の放つ青白い光がぼうっと反射した。生物学上では男だと本人は言うが、低く響きの良い彼の声は女言葉であっても不思議と違和感がない。
「この“海”っていう単語、この本以外でもよく見かけるわ。古典って言ってもおかしくない古い本ばかりだけど。私が今まで読んだ中でもかなりな数の著書で登場してるし、この本の作者だけの創造物ってわけではないのよ。ねぇフラディカ、これって凄く面白いことだと思わない?」
「……そうね。でもそれって、どういうことになのかしら」
 フラディカはキーボードを打つ手を止めずにそう応えた。会話とは全く違う情報が、同時進行で彼の脳からコンピューターに流れてくる。彼は脳の半分を無限の要領を持つハードコンピューターに移植しているサイボーグであり、生身の人間などとは比べ物にならないほどの記憶量を誇っているのだ。その膨大な要領を頼りに、彼はこの街にある殆ど全ての本を読み漁り、そして全ての内容を記憶している。
「さぁ、どうしてなんでしょうね。少なくともこの街――私達が住んでいるこの世界にこんなものは存在しないのに、古い本の多くでは、こうして共通認識されているものとして扱われている。この“海”だけじゃないわ。“陸”、“昼”、“太陽”、“虹”、“雪”、“雨”。この世界では聞いたことも見たことも無いものが、本の中では誰もが知っていて当然なものよ」
 実際、センリが呟いた単語はフラディカでさえもあまり耳馴染みの無いものばかりだった。彼はそこで言葉を切り、部屋にはしばらくキーボードを打つ音と、蝶の羽音のみが静かに響く。
 蝶は一度だけ彼の肩に留まり、またすぐに飛び立った。
「ねぇ、フラディカ」
「何?」
「この世界って、一体何なのかしら」
 独り言のようなその言葉に、フラディカは再び彼を見上げた。センリは手元の本ではなく、蝶たちの住まう光る籠をじっと見つめている。夢を見ているような虚ろで冷たい眼差しに、蝶の放つ青い光がぼんやりと灯った。
「そういう話は、ツェンの方が乗ってくれるわよ」
「――そうね、彼はこの手の話は大好きだもの……でもね、あたしは今貴女の意見が聞きたいの。今まで数え切れないほどの本を読んで、情報を得て、自分なりに研究を重ねてきたけど、何一つわかりもしない。この世界は何なのか? 何時出来たのか? この街以外の構造はどうなっているのか? こんなに知識を溜めても、この世界は未知なことで溢れている」
「……貴方でもわからないことを、私がわかるわけないじゃない。それにもう私は、そんなことには興味が無いから」
 こちらが勤めて素っ気無くそう答えると、彼は軽く溜息をついた。
「フラディカ、あんた言ったわよね。この街の90パーセントはコンピューターで成り立っている。だから自分は、この街を支配することも壊すことも出来るって」
「ええ、さすが……よく覚えているのね、そんな昔の話」
 今から十年ほど前のことだろうか、彼にそんなことを言った記憶は確かにある。そして可笑しいことに、当時の自分は彼の言葉通りのことを出来ると本当に思っていたのだ。しかしそんな馬鹿げたことが言い切れるほど自分のハッキングの能力には自信と自覚があったし、何より、あの頃の自分には怖いものが存在しなかった。
「今だってやろうと思えば出来るんでしょう? それどころか、あんたのハッキングの腕はあの頃よりもずっとずっと上がってるはずよ」
「無理よ。私なんかの技術で壊れてしまうほどこの世界は脆くないって、あの時痛いくらいに判ったもの。私はこの世界の一欠片でしかないし、あの子からは逃げることも出来ない。それに――彼だって未だに救えてない」
 こちらがそう応えると、センリは話し始めて初めてこちらを振り返った。神秘的な赤紫色の瞳に、少し驚いたような表情を浮かべている。
「あら。あんたまだ好きなのね、ノアが」
「……そんなの答えるまでも無いわ。それにそっちだって、何でそんなことを聞くのよ。私に何をしろって言うの。私がこの街を壊したって、貴方が知りたいことが解明されるとは限らないじゃない」
 そうまくし立てた後、フラディカは自分の声が不意にきつくなってしまったことに気付く。そんなこちらの様子を見て、センリはふっと気を抜いたように笑った。
「何となく言ってみただけよ。そんなに怒んなくてもいいじゃない。ホンットあんたって、冷静そうに見えて意外と頭に血が上りやすいんだから」
「……ほっといてよ」
 昔とまるで変わらない彼の口調に、こちらもつい当時のような返事をする。自分のこんな一面を知っているほど長い付き合いの人間も、今では彼ぐらいしかいなくなってしまった。
「まぁいいわ、あんたがそうムキになるのも判るから」
 彼は本を閉じて立ち上がり、すぐ傍の窓を覆っていたカーテンをすっと開いた。
 その窓の外、幾重にも重なった摩天楼の奥に、巨大な銀色の球体が見える。この街の未知の全てを凝縮させたような、美しく、それでいて禍々しくも見える世界の中心。センリは傍に飛んできた蝶にそっと手を触れ、そしてぐっと強く握った。
「あたしもあんたも、それにノアだって、結局はほんの一欠片でしかない。そう言いたいんでしょ?いくら知識を得て足掻いても、たとえこの世界の正体がフェイクだろうとバーチャルだろうと――ね」
 闇を切り取ったような窓の前。光の蝶は彼の手の中でばたつき、そして静かに羽根を散らした。

(パラドクスオブユニヴァース--FIN.)