階層硝子都市--エバーフォーレンレクイエム

『黒鳥再び』
『快挙! 六年ぶりの返り咲き』
『沈黙破る疾走。“黒鳥”クランツ、堂々優勝』
「なんだよこれ…」
 先ほど見始めたところなのにもう見飽きてしまい、思わず軽い舌打ちが零れる。日付が変わると同時に街中にばら撒かれた新聞には、先日に行われたフェザーモートレースのこと――いや正確には、そのレースで一位を取った選手のことしか載っていない。ページをめくってもめくっても出てくる黒髪碧眼の青年の姿にいい加減うんざりしつつ、ラグは片手に持った小さなパンに齧り付いた。このパンは昨日飲食店からくすめてきたもので、表面が乾いていてお世辞にも美味しいとは言えない。
 しかしラグにはそれも日常的なことであり、空腹が満たせれば味や食感などどうでもよい。常時持ち歩いているボトルに汲んだ水でパンを胃へと流し込み、ラグはぐしゃぐしゃになった新聞を畳んで尻のポケットに突っ込む。
 すぐ横を通り過ぎていく人々の声、雑踏、フェザーモートのエンジン音、どこかの部屋から漏れる音楽のビート。極彩色のネオンの光、それを反射して空中でキラキラと瞬いているのは、フラグメントと呼ばれる浮遊する特殊な硝子の欠片だ。無数の高層ビルからなるこの街において建物同士を繋ぐこの『橋』と呼ばれる通路には、いつも様々な音や光が入り混じっている。
 これには屋根も壁もなく、剥き出しのコンクリートに低いフェンスと照明が付いているだけの質素な造りをしているのだが、時間帯の感覚など無いこの街らしく橋から人波の途切れることなど殆ど無く、一日の大半をここで過ごすという住人も街中に少なからずいることだろう。ラグはもたれていたフェンスから身体を離し、うんと軽く伸びをした。一つの場所に留まっているのはあまり好かない。身寄りも定まった住居も持たない自分の身体は、常に別の場所へと漂うことを求める。今までいたこの場所を去ろうと照明と溶け合う闇に一瞥をくれた時、その澄んだ音は雑踏を飛び越えてラグの耳へと入った。
 笛のようなサイレンのような、心臓に突き刺さる電波のような、しかしどこか美しく幻想的なその音。それが鳴った瞬間、ラグだけでなく橋にいた通行人の全てが足を止めて耳を澄ました。出所を探って辺りを見回す者もいれば、掌を組んで宙を仰ぐ者もいる。ラグはそんな彼らの間を縫うようにして、弾かれたようにそこから走り出した。

 ちょうどこの階に着いていたエレベーターに飛び乗り、一気にその建物の屋上へと上がる。そこはフェザーモート乗り場になっている場所だが、珍しいことに一台も機体が停まっていない。しかしそのおかげで、ラグは先ほどの音の出所をすぐに見つけることが出来た。数十メートル離れた建物のここから何階分か上に位置する屋上に、ぱっと見ただけでは数え切れないほど多くの人が集っている。
 ラグは屋上のフェンスから身を乗り出して目を凝らした。人々は皆照明に映える白い衣装を身に纏い、人が一人入れるほどの長方形の白い箱を囲んでいる。そう、あれは棺だ。
 この都市の葬儀において昔から使われている棺は、フェザーモートとよく似た構造の機械が組み込まれていると聞いた。当然風のような滑走などはしないが、あの棺には多分フェザーモートにも使われているような浮力制御装置が備わっているのだろう――ラグの視線の先、白い住人達は厳かな動作で照明に照らされた屋上から宙へと棺を送り出した。が、棺はすぐには落下せず、ふわりと闇の上に乗りかかるように宙に浮く。無数のフラグメント達が示し合わせたかのように棺に集まり、白く強く発光して死者を包んだ。棺は宙を浮遊しながら、ゆっくりとゆっくりと闇の中を落ちていく。フラグメントの美しい光に煽られながら、白装束の住人達は静かに手を組み、もう戻って来ない死者をじっと見つめていた。
 あの橋で聞いた音は、これから出棺をするという合図なのだ。人の死が好きだというわけではないのだが、ラグはこの光景には何故か惹かれ、あの音を聞く度にこうして葬儀の場所を探し出しては眺めている。白い光に包まれた棺が静かに闇へと沈んでいく情景は、とても美しく優しい。ラグもあの死者を悼んでいる白い住人と同じように目を閉じて黙祷を捧た、その時。
「……ひぐっ……う……」
 すぐ傍で、泣き声のような変な声が聞こえた。誰かいるのか――黙祷の途中でうっすらと目を開けて辺りを見回し、ラグはその人物が意外と自分の近くにいたことにぎょっとする。いつの間にかすぐ横に、見かけたことの無い小柄な少女が立っていたのだ。少女はつい一瞬前までの自分のように、じっと闇に葬送された棺を見つめている。自分と違うのは、その大きな瞳から涙の粒が止め処なく流れ落ちていることくらいだろうか。少女はひらひらとした可愛らしい服を着、髪には白い大きなリボンを結っている。歳は自分より少し下なくらいだと思うが、歳の近い異性の知り合いなど他にいたことが無いので、実際はよくわからない。
「……おい、大丈夫か?」
 思わずこちらから声をかけると少女は心底驚いて振り返り、そしてこちらの存在を失念していたのだろう、今更になって目や鼻の辺りを袖で隠す。
「……!! あ、あの、すみませっ……」
「や、別にいいけど」
 様子を聞いただけなのに何故か謝られてしまい、返す言葉がとっさに思いつかなかった。少女の大きな瞳は綺麗な真紅で、涙を溜めている所為かちかちかと光って見える。あどけなくおっとりした顔立ちで、透けるように白い肌はほんのりと紅潮していた。予想外に可愛らしかった少女の容姿に、ラグは急に慣れない緊張を覚える。一瞬話しかけてしまったことを後悔したが、少女の方はきょとんとした表情でこちらを見続けていた。こうなってしまっては引けない。
「ああ……なんだ、あの故人の知り合いか何かか?そんなに泣いて」
 間を持たせようとするあまり、聞くつもりのなかったことを口にした。自分だったらこんなことを他人に聞かれるのはとても煩わしく不愉快なことのだが、少女はそうではなかったらしい。目元にまだ残っている涙を拭い、少女は拙い口調で話し出した。
「ち、違うんですけど、………僕、お葬式って初めて見て。さっきのサイレンを聞いて、あれは葬儀の合図だよ、葬儀は悲しいけど凄く綺麗な儀式だから、見たこと無いなら見ておいた方が良いよってフラディカが……あ、フラディカは一緒に住んでくれている人で、ええと、それで、ここに来て…………? 僕、何で泣いてたんでしょう……?」
「はぁぁ??」
 そうわけのわからないことを言いながら、少女はゆっくりと落下していく白い棺へと視線を戻した。フラグメントに包まれた棺は闇を淡く照らす。周りにそびえる摩天楼のネオンもこの時ばかりは静かに鳴りを潜め、誰も見たことの無い地へと堕ちていく死者をひっそりと見守っているようだ。
「あの、白い棺が落ちていくのを見ていたら……あの人はずっとこの闇の中を落ちていくんだって……こんなに暗くて怖くて寒い中、あの人はどれだけの長い時間を独りで過ごすんだろうって考えると、急に悲しくなって、そうしたらいつの間にか、涙が、出てきて」
「……ふぅん」
 ラグは少女の話を聞いて相槌を打ち、摩天楼のずっと底を見下ろした。しばらくは街のネオンがぽつぽつと続いているが、底の底の方は目が眩むほどの漆黒に支配されている。街はコアを中心として『階下』、『回廊』と呼ばれる領域へと降りていくのだが、この摩天楼の最深部へはまだまだ到底到達しない。不慮の事故で落ちてしまった者や、自ら最深部を目指して降りていった者も幾人かいるようだが、再び街へ帰って来たという者は全くいない。摩天楼の底は誰も知らない未知の世界、或るいは――死者の世界なのだ。
「俺だったら別にいいけどな。一人でも」
 こちらがそう思ったままを応えると、少女は棺から視線を外して振り返った。
「そんな……寂しいです」
「別に。俺は昔から一人でいるし、暗いところも嫌いじゃない。長い間じっとしているのは得意じゃないけど、街の底に行くっていうのには興味がある」
 だから死後にどれだけ長い時間孤独だろうと、ラグにとってはさして気にかかるようなことではない。しかし真横に立つ少女は、先ほどと同じきょとんとした顔でこちらを見つめている。
「一人で住んでいるんですか?」
「ああ、ずっと。家族とかも前はいたけど、今はどこにいるのかもわかんねー」
 自分が家族に捨てられたのだということに気付いたのは、一人にされてからしばらく経ってからのことだった。『階下』と呼ばれるコアよりも下に位置する区域に住む家庭では、貧しさのあまり労働や賭博、その他諸々の事情で家を空ける大人など数え切れないほどにいる。顔も覚えていないラグの両親も自分を放って外出することの多い人間だったことは確かで、当時は幼かったはずの自分でも、こうして捨てられるということを予測していたのを今でもよく覚えている。ラグはいつも思う、家族などいてもいなくても、自分は結局一人なのだ。
「僕も、今住んでいるところに預けられるまでは、ずっと一人でした」
 こちらの返事を受けてか、少女も呟くようにそう言った。
「家族というのも、僕にはよくわかりません。気付いた時から一人だったから…。でも、今はフラディカと一緒に暮らしていて、怖い夢を見たってすぐに忘れてしまうくらい、楽しいし、嬉しいこともいっぱいあって、だから一人だった時のことを思い出すと、寂しくて寂しくて、どうにかなりそうになるんです」
 少女はまたフェンス越しに闇を覗き込み、いつの間にかかなり遠くに沈んでしまった白い棺を見る。
「それってさ、要するに、今は一緒に住んでる人もいてすげぇ楽しいから、昔の自分がが寂しく思えるってことだろ?」
「え?」
「一人でいた頃のお前は、きっと、自分が孤独だって事も知らなかったはずだ。だってそれが当たり前だったんだから。違うか?」
 そう言いながら隣を見やると、丸い目を更に丸くした少女と目が合った。しかし少女はすぐに目を伏せ、少しだけ考えるような仕草を見せる。
「……そう、かも、しれません」
「そうだろ」
「じゃあ、あなたは?」
「……俺?」
「あなたは、一人でいるのが当たり前だから、寂しいって思わないんですか?」
 まさか聞き返されるとは思わなかった。自分で言い出したことなのに、ラグは不意に言葉に詰まる。
「そう、だな」
「そんな、……」
 こちらの返事に少女は何かを言いかけ、そして止めた。少女は身体ごとこちらに迎い、自分の胸に小さな手のひらを当てる。
「あの、僕、リデルっていいます。あなたは?」
「……? あ、ああ、ラグだけど」
「よかったら、また……今度は僕の…ええと、フラディカの家で、僕、チェスが好きだから、一緒に……ルールとかわからなかったら、教えますから、その、遊びませんか?」
 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
「は?」
「独りなのが当たり前だから寂しいなんて思わない……って、僕もそうだと思うけど、でもやっぱり、独りなのは、辛いです」
 少女は言いながら、少しだけ悲しそうな顔をして笑った。伏せ気味の長い睫毛には、もう涙はついていない。
「じゃあ、僕、またここに来ますから……」
 こちらが何か言おうと口を開けると、少女はそれを遮るようにそれだけを言い残し、恥ずかしそうに身を翻してエレベーターへと駆け出していった。同時に、葬儀の最中は静まっていた街の喧騒が徐々に取り戻されていくのが、ラグの耳にかすかに聞こえ始める。
 時間とは無縁の闇の中に在って、この街だけが切り取られたかのように流動をし続けるのだ。そしてそれは、自分であっても同じこと。ラグは視線を宙に移して溜息をつき、今の今まで隣にいた、少女の瞳の色を思い出す。――少女?
 ラグは急に違和感を覚え、会話の端々を思い起こした。僕、僕も、僕には、僕の…
「……って、は?……まさか」
 思わず背後を振り返ってみても、少女の――否、その少年の姿はもうどこにもいない。ネオンが再び華やぎだした摩天楼の中で、ラグは再び一人になった。今隣に感じるこの空白が、寂しさというものなのだろうか。
 遠い遠い闇の中で、フラグメントの光がちかちかと瞬いた。

(エバーフォーレンレクイエム--FIN.)