階層硝子都市--マジェスティックキルスター

「チェックメイト」
 その言葉で、ツェンははっと我に返った。目の前では可愛らしい少女――いや、正確には可愛らしい服を着た少女のような顔の少年が、黒と白の駒が立つ碁盤の上とこちらを嬉しそうに見つめている。
「えへへ。ツェン、僕やっと勝ったよ」
「――……あーあ、ほんとだ。強くなったね、リデル」
 リデルは最近このボードゲームのやり方を覚えたらしく、こちらがここに顔を見せるたびに勝負を申し込んでくる。しかし五回目にしてやっと勝ちを取った今の試合で、まさかずっと相手が別のことを考えていたなんて、この純粋無垢な少年は思いも寄らないのだろう。実際、今の今までやっていたはずなのに、ツェンはこの勝負の内容をあまりまともに覚えていない。
「フラディカ、僕ツェンに勝ったよ!」
 元気よく椅子から降りたリデルは、背後の専用ディスクでコンピューターを弄っているフラディカの元へと走っていった。彼女の住まいの一角であるこの部屋は、現在自分が腰掛けているテーブルセットの他にはコンピューターと本しかない。テーブルの傍らに置かれたティーセットからは甘い匂いが漂っているが、生活感のある物質はそれだけだ。コンピューターの微かな機動音と空調のファンの振動が、部屋の静けさを一層濃くしているような気がした。
「そう、良かったわね。今度私もお相手してもらおうかしら」
 フラディカはそう言ってリデルの髪を軽く撫で、その手でメインコンピューターから小さなチップを取り出した。こちらがデータのスキャンを頼んで持ち込んだファイルだ。自分は恥ずかしいことに、コンピューターを弄るのはあまり得意な方ではない。“電子の魔女”という異名も持っているだけあり、彼女は普通の者なら数時間とかかるプログラミングでも、数分とかからずにで見事に完成させてしまうのだった。
 彼女はこちらにチップを手渡すと、先ほどのリデルのような得意げな笑みを見せた。
「はい、システムには特に変わったことは無かったわ。内容にはちょっと黒いところがいくつかあったけど、そちらのご老体たちが潤ってるって証拠ね。ある意味とっても興味深い。ノアの苦労を思ったら、一人ずつ順に殺してやりたいくらいね」
「相変わらず、そんな顔して言うことは怖いねぇ」
「そう?貴方には言われたくないけど」
「はは、そうかな……」
 ツェンは笑って誤魔化しながら立ち上がり、傍らのチェスボードの駒を倒さぬようにゆっくりと黒い襟巻きを羽織った。街の統括機関・コアの役人であることを告げるその黒衣は、外に出れば丁度良い防寒となるのだが、いかんせん自分はあまり気に入っていない。
「ツェン、帰っちゃうの?」
 二人のやり取りを不思議そうに見ていたリデルが、こちらの裾を引っ張って聞いた。深い朱色をした大きな目に、覗き込んだこちらの顔が映っている。
「うん、でもまたすぐに来るよ。そしたらまたチェスをしよう」
 リデルの癖の無いサラサラとした髪を撫で、ツェンはできるだけ優しくそう言った。

 この街は得体が知れない。ツェンは煙草に火を灯し、溜息と共に煙を細く吐き出した。
 高層ビルによって形作られた縦長の街の中。住人は天や地といった概念も無くただ縦横無尽に移動し、街を包む夜は決して明けず、人々の生きている声は堪えることなく続いていく。このうちの何割の人間が、この街が何故作られたのか、どのようにして作り出されたのかを気にして生きているというのか。この街に生を宿して以来、自分は常にそればかりを考えて生きてきた。この街には名前が無い。歴史も無い。ただいつの間にかできていた巨大な建物の集合。しかし住人の殆どは、この街のこういった違和感には全く気付かず――いや、気にも留めずに生活を営んでいる。ツェンにとっては、それは吐き気がするほど気味の悪いことだった。
 フラディカ宅を後にし、ツェンは街全体を見渡せる階上のデッキへと赴いた。ここから見るこの街の景色は最高に綺麗で、街を歩く度に足を運んでいるのである。建物の側面を飾って明滅を繰り返す窓やネオン、その間を縫うように通っているエレベーターのパイプの薄青い光。その街の中心、建物たちに包まれ、胎児のように悠々と浮んでいる銀色の巨大な球体。それが“核”と呼ばれるこの街の統括機関であり、自分が所属する組織の本拠地である。
 飛び交うフェザーモートに掻き回されてできた風は、ツェンの点けた煙草の煙をただただ黒い上空へと引き裂いていく。燃え尽きた先端の灰を足元に落とし、ツェンはただじっと眼下のビル群の中にうずくまる核を見つめた。組織の一員として籍を置きながら、自分はあれが他の何よりも大嫌いだった。
 その証拠に、コアと街との間を行き来して情報や問題事項の収集を管轄しているという自分の役職を利用し、こうやって定期的にフラディカの元へコアの機密事項を流しているのだ。あそこで生まれ育ち、自由を無くしていたリデルを彼女の元へ連れて行ったのだって自分で、上層部はそんな自分の動きを知っていて黙認をしているということも、よくわかっていることである。
 ただ、フラディカは上層部の老人達を殺してやりたいと言っていたが、ツェン自身が気にしているのはその老人達の更に奥にある存在だ。永遠に続く夜空の下、ツェンはあの球体の中心、誰に起こされること無く眠り続けている一人の小さな少女を思った。
 アリス。この世界の中心。この世界の始まりと終わりを知っている、ただ一人の存在。馬鹿馬鹿しいことだが、たったそれだけで自分は、彼女のことを殺したいほど憎しんでいるのだ。
 ツェンは腰のホルスターから拳銃を抜き取り、遠くで鈍く発光する核へと静かに銃口を向ける。
「チェックメイト」
 彼女を撃ち殺すことだけをイメージしながら、ツェンは虚空にたった一言呟いた。

(マジェスティックキルスター--FIN.)