階層硝子都市--ダクネスノクターン

 私はふと顔を上げる。しかし、白い壁の向こうにはいつものように黒が広がっているだけだ。那由多にひしめく闇の粒。目を閉じればすぐにこちらの意識を侵食していくそれを、この部屋は白い光によって遮断し、境界を作り、私を世界より切り抜いている無機質な空間。一つだけ開けられた窓は天も地も映さず、私はこうして、ただただ闇だけを見つめて無限ともいえる時間を過ごしている。
 闇の中に一筋差し込むこのピアノの音色だけが、私のモノクロームな世界で唯一の色彩だ。判る。これはこの部屋に響いているのではなく、私の脳に直接響いている音色だ。奏でているのは勿論彼で、そして彼がこれを弾いている姿も容易に想像ができる。あの長く綺麗な指から奏でられる旋律は、甘く、しなやかで、私の脳をいつまでもいつまでも飽きさせない。
「ドーリス、聞こえている?」
 私は窓から闇を見つめながら、何処にとも無く呟いた。
「はい、聞こえていますよ」
 背後から声が返ってきた。落ち着いた女の声。私は振り返らずに続ける。
「私からはこの底辺も天井も見えないけれど、この部屋は高い場所にある。ここは密室。ここには私以外に何も無い。ベッドも家具も、花も本もパズルも、全てあの子が持って行ってしまった。私は一人。けれど私は、この世界の全て。闇も私の四肢のよう。この髪一本一本の先のよう。判る?温度は仮想、けれど凍えることはない。酸素も仮想、けれど呼吸に苦しむことも無い。世界は私で、私は世界」
「はい、判っております。貴女は世界。そして私もまた、貴女の一部」
 女の声は淀み無く答える。私は闇を見つめ続ける。
「そう。貴方も彼も、この世界を造る全てが私の一部。あの子だけが、一点、私から逃れようと零れた一粒の粒子」
 私は闇へと手を伸ばす。しかしその粒を掴めることは無く、私のこの小さな手のひらでは掬い取ることもできない。私はこの世界の中心。なのにそのたった一つの粒の所為で、私の世界は均衡を保てない秤のような不安に狂う。
「私から零れ落ちる瞬間まで、あの子は彼と溶け合っていた。そして今も、あの子と彼の意識はどこかで溶け合っている。ここは私の世界。けれどあの子は私にも掴むことができない。あの子と彼は、どうやっても切り離すことが出来ない。ドーリス、もう一度聞くわ。この世界は私。誰にも侵されることは無い、私はこの世界の全て。私には不可能なことなど存在しない。私は間違っている?」
 そうして私は闇を見つめる。この闇もまた、私の一部なのである。
 背後の女はまた静かに言った。無機質で、しかし歌うように響きのある声。
「いいえ、貴女は間違ってなどいませんわ。貴女が目覚める時、この闇にも太陽が生まれる。貴女が立ち上がる時、この世界にも花が咲く。彼のキスより起こされるまで、貴女は安心して眠ればいいのです。アリス」

 ピアノの音は、まだ聞こえ続けている。

(ダクネスノクターン--FIN.)