階層硝子都市--ダークインダウンワード

 足元が崩れる感覚が確かにあった。
 身体はあっという間に重力にひれ伏し、目にも留まらぬ速さで視界が天に吸い込まれていく。何かを掴もうと頭上に伸ばした手は何も掴まず、見下ろせば摩天楼の底が死の果てのような闇の口を広げている。リデルは思わず悲鳴を上げた。しかしそれも足元から吹き付ける空気の音に掻き消され、自分の耳にも届かない。暗い群青に染められた空は、檻のようにそびえる摩天楼に押し潰されていく。
 落ちる堕ちる落ちる。脳は重力に支配され、思考は遥か空中へと置き去りにしてきてしまった。わかるのは、自分はもうすぐ死ぬのだろうということだけだ。不意に涙腺が緩んだ。が、しかし、自分は本当に泣いているのだろうか。
 突如、視界の端に強い光が現れた。摩天楼に開けられた大きな窓。落下運動をし続けるリデルの視界の中で、その窓だけがスローモーションようにゆっくりと捉えられる。
 人だ。人がいる。窓に佇む人影が、こちらをじっと見つめているのだ。
 その人影は小さい。それは少女で、自分よりも三つ四つ年下だと直感的に感じた。逆光になり顔や格好はよく見えないが、彼女の双眸が蛍のように淡い光を湛えているのには気が付く。鮮やかなエメラルド色。しかしその色から感情は読み取れず、落下を続ける自分と彼女の距離はだんだんと広まっていく。視界は急に速度を速め、少女もその窓も、みるみるうちに遠い闇の彼方へと吸い込まれていった。

 迫り来る闇と死への恐怖に、リデルは再び大きな声を上げる。

「はっ、……っ、…………」
 目を開けると、そこにはいつもと変わらぬ天井があった。窓のカーテンから薄く漏れるネオンの光。闇は青く、外を駆けるフェザーモートのエンジンと、けたたましい音楽の残響が聞こえる。昼間の無いこの街の住人に、他の誰かの睡眠を気にかける者などほんの一握りしかいないのだ。
 リデルは自分の胸に手をやった。息は切れ、心臓は苦しいほどに高鳴っている。頬から首筋にかけてに冷たい水の感触があり、ああ自分はまた泣いていたんだ、とぼやけた思考の中で思った。
 この夢を毎晩見るようになったのはいつ頃からだろうか。眠る度に同じ夢を見ているのに、その内容に慣れるということは不思議と起こらない。毎晩摩天楼を落下し、闇に飲み込まれ、泣き叫びながら目を覚ます。おかげで眠ることそのものがとても苦手になってしまったのだが、そんな意に反して身体は睡眠を欲し、否応にも無くまた眠ることになる。このままだと自分はいつか夢に狂わされてしまうのではないだろうか――いや、もう狂わされているのかもしれないと、リデルは半ば投げやりに思う。
 胸に手を当てたまま呼吸が落ち着くのを待っていると、部屋のドアが静かに開いた。廊下の明かりが薄暗い部屋に差し込む。
「リデル」
 落ち着いた女の声。リデルは慌てて上半身を起こし、手の甲で涙を拭った。女はふわりとリデルのベッドに腰掛ける。外の明かりを受け、彼女の目は蛍のような光を帯びた。エメラルド色の目。そう、夢に出てくる、あの少女と同じ色をした目だ。彼女はその目でじっとこちらを見つめ、いつもの問いを優しく口にした。
「泣いてるの?」
「……もう大丈夫だよ、フラディカ」
「そう……それならいいけど」
 彼女――フラディカはふっと口元を緩め、こちらの目尻に少しだけ触れる。細くて長い指。爪に薄く塗られたマニキュアが、窓の明かりを淡く反射させた。彼女は知っている。自分が眠るのを嫌う訳も、こうして泣いて目覚める訳も。だから夢のことをわざわざ問うことはしない。彼女は涙で濡れた目を拭った後、いつも瞼に優しい口付けをくれる。
 こちらの瞼に甘い感触を残し、フラディカはゆっくりと立ち上がった。
「紅茶を淹れてあるの。もう起きて、一緒にどう?」
 彼女の微笑を見るといつも思う。どんな悪夢を見ようとも、彼女のいる世界に目覚めるならば、他には何もいらない。彼女は、世界そのものだ。
「うんっ」
 リデルは頷き、温かい光の灯る部屋の外を目に写した。

(ダークインダウンワード--FIN.)