さよならボイジャー(03)

「あ、誓子(せいこ)さん」
「……こんにちは」
「あら、有羽ちゃん。相変わらず男の子みたいね」
 長い黒髪をうなじでまとめ、化粧は相変わらずばっちり決まっている。そこに好意的には見えない笑みを作り、彼女はさらりと口にした。制服ですけど? と思わず言い返しそうになり、ギリギリで押しとどめる。
 彼女・誓子さんは深の従姉らしいひとで、たまにこうやって赤いスポーツカーに乗ってやってくる。あまりそうは見えないものの、普段はどこかの企業で研究者として働いているらしい。年齢は不詳。二十代に見えなくもないけど、初めて会った十年くらい前には既に就職していた。だから、少なくとも三十歳は越しているはず。
 それにしても、やけに深ばかり気にかけているのだ。天束家で出会っても深の傍をずっと陣取っているし、深と一緒にいればいつも今みたいに嫌味を言われる。深は彼女に対して何も言わないが、私は少し苦手だ――というより、正直好きじゃない。
「深、ちょっと話があるの。一緒に来てくれる?」
「え」
 深よりも先に反応してしまった。誓子さんは耳ざとくこちらを向いて、また余計なひと言を付け加える。
「あらごめんね、楽しい時間の途中に。でも有羽ちゃんは関係ないわ。深、早く」
「う、うん」
 深は小さい子供みたいに私と誓子さんを見比べていたが、その強い口調に引っ張られてついと車の方に行ってしまった。後部座席に乗り込みながら、困惑したままの顔でこちらに手を振る。
「じゃあね、有羽」
 ばたんとドアが閉められたのと同時に、車のマフラーは派手な音を立てて震えだした。そして、息もつかずに走り出す。あっという間に小さくなっていく赤い彗星、もとい、スポーツカー。今となっては貴重な深と二人だけの時間が唐突に終了し、さっきまでの舞い上がったテンションがダンクシュートされたみたいに勢いよく叩き落される。
「……何よ」
 道端に一人置いてけぼりにされ、私は秋空にため息をついた。



  *


 がちゃんと大きい音がして、お皿が割れた。
 フローリングに白い欠片や粉が散らばっている。お母さんがおやつに買っておいてくれたケーキを分けようと、食器棚からお皿を取り出そうとした直後だった。手が滑った感覚だけはしっかりあったのに、何が起こったのかすぐには理解できなかった。散らばった破片と同じように真っ白になった頭で、私は呆然と呟く。
「――どうしよう」
 音が聞こえたんだろうか。隣の部屋から、ぱたぱたと軽い足音がこちらに向かってきた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「直矢、あぶないよ。向こうの部屋で待ってて」
 駆け寄ってきた弟の直矢を、傍にいた深が止める。放心状態の私に変わって、無邪気な弟を元いた部屋へと誘導し直した。直矢は頷いて戻っていく。つけっぱなしのアニメビデオの音がやけに大きく聞こえたけれど、私は割れたお皿の破片から目が離せない。お母さんが気に入っている、友達からのプレゼントだったお皿。どうしよう。帰ってきたら、絶対に怒られちゃう。
 私がしゃがんだまま動けないでいると、同じようにしゃがんだ深がとんとんと肩を叩いてきた。
「――深」
「だいじょうぶだよ。片付けよう」
 深は真面目な顔のままそう言って、白くて細い手で破片を拾いだした。私はやっと我に返って、それに倣って粉々になった白い欠片を集めていく。
 けれど、途中で指先に鋭い痛みを感じた。
「あっ」
 欠片を離して指を見る。人差し指の先に薄い切り傷が入っていて、ふつと赤い血が浮かんできた。
 じんわりとした痛み。血はどんどん出て来て、赤くなった指の上をつたう。お皿を割ってしまった事と痛みで、私は自分の不甲斐なさに涙が出てきた。
「痛い」
「見せて」
 そう言って、深は私の手を掴んだ。そしてそのまま――私が何かリアクションをする前に――つ、と指先の傷口を唇に持っていった。
舌が触れる。深のそれは、ひんやりとして心地が良い。だけど、少しだけ染みた。不意に手がぴくりと震える。
「ん、」
 思わず出した声に、深は掴んでいた私の手を離した。
「有羽、いたい?」
「痛くはない、けど」
 私は呆気にとられる。指先にはまた血が溜まって来ていて、深が珍しいものを見るようにきょとんと瞬いた。
「また出てきた」
「ティッシュと、絆創膏」
「とってくる」
 私の呟きに、深はすぐ立ち上がった。私は傷口をもう一度見る。すっかり敏感になった指先には、まだ柔らかく瑞々しい感触の余韻が残っていた。
 どきどきする。傷口を舐めたら黴菌が入るよってお母さんには言われるけど、深ならすぐに治ってしまいそうな気がした。



  二


 最後のトラックを走り終え、私は膝に両手をつく。走ったせいで大きくなった鼓動が、どくんどくんと一拍ずつ体に沈む。胸に手を当ててその器官の存在を確かめながら、私は両の肺にゆっくりと空気を取り入れた。
 十月最初の朝は、肌寒い。
 昨日まではもっと温かかったような気がするのに、月が替わるだけでこんなにも違いが出るものなのか。クラブメイトと一緒に道具を片付け、手っ取り早く制服に着替える。有志で参加していた後輩たちを見送り、顧問に用事があるという芹菜と璃子と別れ、麻美と並んで二年の教室棟に向かった。 何も変わらない、いつも通りの朝だ。
「有羽、疲れてんの? なんか元気なくない?」
 歩きながら伸びをする私に、麻美が唐突に話を振ってきた。
「え、何で」
「何となく。だってさ、さっきもすぐ疲れてたじゃん。朝は軽く走ってるから、いつもならそんなに疲れてないっしょ」
「そっ……かなぁ」
 私は自分の身体を見下ろす。外の空気が変わったなぁとは思っていたけど、自分自身の変化は感じてなかった。
「そだよ。な〜〜んかあったな。あ、さてはこの前のあれか。あれがまだ気になるのか?」
「何よあれって」
「天束のあれだよ。告られてたやつ」
「もう。そんなの先週の話じゃない」
 深が告白されていた日――あの、一年後の打ち上げを見る約束をした日からちょうど一週間が経っている。私的にはもう古い話題だけど、麻美にとってはそこそこセンセーショナルだったらしい。
「それに、深も断ってたから」
「なんだ。ま、天束はあんたにぞっこんだけもんね。でもさぁ、悠長にしてたらふらふらどっか行っちゃいそうじゃない? 天束って、風船みたいな感じあるし」
 麻美の感性はぶっ飛んでいる。確かにぼんやりはしてるけど、そんなに軽いかな? 失礼しちゃう。私は呆れて息をついた。
「何それ」
「何となく? まいいや。とりあえずお腹空いた。教室行くわ」
 そう言い残して、麻美は自分の教室目掛けて走っていった。閑静な廊下に、軽やかな足音が響く。お腹空いたって言う割にはよく走るなぁ。私は息をついてその背中を見送り、ちょうど入り口まで来ていた自分の教室に入る。と、
「深?」
 一番乗りだと思っていたのに、先客がいた。自分の席に行儀よく座って、深がぼんやりと空を見ている。朝の光が横顔に差し込んで、白い肌が更に白く見えた。朝練がある私と違って通常の時間に登校してくるから、この時間帯に教室で顔を合わせるのは凄く珍しいことだ。
「――有羽」
 何を考えていたのか、声を掛けてから一拍後にやっと振り返る。風船みたい、という今さっきの麻美の例えを不本意にも思い出した。先週誓子さんと会ってから、深は少し様子が変だ。ぼんやりしているのはいつものことだけど、それと雰囲気が違う気がする。
「早いじゃない。どうしたの?」
「うん、先生に用事があって。有羽は部活?」
「そうだよ。お腹空いちゃった」
 つい麻美と同じようなことを口走った自分に苦笑しながら、私は自分の席に着くと鞄からおにぎりを取り出した。ラップを開いて噛り付くと、深が目を丸くする。朝ごはんはどこに入ったんだ、とでも言いたそうだ。
「よく食べるね」
「そ、そんなことないって。うちの部だとこのくらい普通! 麻美なんてもっと食べるよ」
 お弁当をお母さんに作って貰う分、さすがにこれは自作してきている。朝練後用と、放課後の部活終わり用と。家族にも食べ過ぎだって言われるけど、その分動くからプラマイゼロでしょう。それに本当に、麻美の方がいっぱい食べてるんだから。
 私はおにぎりを一個食べ終えて、深の細い体躯を見た。男子に思えないくらいの痩せた身体は、確かに顔立ちには嵌ってるかもしれないけど。体調を崩しているところを昔から何度も見ている者としては、どうにかした方が良いんじゃないかと思う。育ち盛りには変わりないんだし。
「深こそもっと食べなきゃ駄目だよ。アレルギーもあるけど、そのままだと体も良くならない」
「うん――」
 そう相槌を打って、また黙り込んだ。ぼんやりしてても、深は姿勢を崩さない。背筋をぴんと伸ばしたまま机の上で手を組んで、再び視線を宙に投げる。