さよならボイジャー(01)

  *


 ピンク色の洪水のような花畑が、ずっと奥の丘の麓まで続いていた。
 花の名前と宇宙とを掛けたのかもしれない。宇宙開発センターの回りの広大な敷地には、何万何億のコスモスの花が敷き詰められている。
 施設の見学が終わると、いつも小さなスニーカーで駆けた。私は昔から走るのが好きだったし、コスモスの甘い香りの中に入ると凄く気持ちが良い。幼い頃は特に、コスモスはとても背の高い植物に見えていた。そのせいもあって、全方向を白とピンクに包まれた迷路は未だに異世界だったように思う。
 ミツバチが飛び、鳥が鳴き、空はどこまでも高く続いている。大きく息を吸った。暑くも無く冷たくも無い温度の風がコスモスの花を揺らせ、私の頬をくすぐる。丘の上の発射台まで全力で走ったら、どのくらいで着くだろう。試してみようかな。そんなことを思っていると、後ろからひっきりなしに私の名前を呼んでいる声が聞こえた。深(しん)だ。
「有羽(ゆう)! 有羽!」
「何?」
 深にしては珍しい慌てた声。急いでコスモスをかき分けて探し出すと、花たちの根元にしゃがみ込んでいる小さな背中が見えた。
「どうしたの?」
 転んだのかもしれないと、私はどきりとした。しまった、と思う。ここに誘ったのは私なのに、自分が走り回るのに夢中で、置いてけぼりにしてしまっていた。深は運動が得意でないし、そもそも身体が弱いから、怪我をして何かあったら大変だ。だけど心配して近づいた私に対し、深は脅かすようにぱっと振り向いてこちらに手を出してきた。
 反射的に差し出し返した私の手を通り過ぎて、その手は耳の上へと伸ばされる。
「はい」
 深の手が左耳に触れた。髪に何かが挟まれ、私はそっとそれに触れてみる。花ごと落ちていたのだろうか。コスモスの花が飾られているようだった。
「かわいい」
 こちらを見つめて、にこりと笑う。普段から殆ど言われない言葉に私は動揺して、一気に顔が熱くなった。それでも深は何の臆面も無い笑顔のまま、再度ピンクの迷路の中に入り込んでいく。いつもはとろいのに、その時だけはまるで白い兎みたいにすばしっこく花畑を駆けて行った。
「待ってよもう!」
 急いで追いかける。秋空に、私と深の笑い声が高く上がった。



  一


 地面を蹴る瞬間の感覚は、私にとってはずっと特別なものだった。
 肺は奮え、
 胸は躍り、
 脳は羽ばたくように活性化する。
 息の上りは体中の歓喜の証だ。体の殻をぶち破り、遠くへ遠くへ行こうとする気持ちを、どうしたって抑えることができない。交互に蹴りつける地面でさえも、私の前進を後押ししているみたいだ。このまま重力が消え去り、空の果てまで飛んで行ってしまう錯覚さえ覚えた。私は今何よりも自由で、強く、そして生きているのだと感じる。
「凄い! 有羽、また記録更新したよ!」
 足元の白線を超えた瞬間、クラブメイトの璃子がワッとはしゃいだ声を上げた。私はその声を聴くなりすっとスピードを緩め、大きくUターンして戻る。ストップウォッチを握る璃子の周りには、もうすでにわらわらと他のクラブメイトが集まっていた。
「どれどれ。わ、ほんとだ」
「げげっ。これ、この前の大会よりもだいぶ速いよ?」
「有羽、ちょっとあんた、練習中くらい手ぇ抜きなって。ハードル高くなるじゃん」
「……そんなこと言われても。手抜いたら練習になんないし」
 軽口を叩きながらタオルを被せてきた麻美に答えながら、私も小柄な璃子が持つストップウォッチを覗きこむ。確かに、それは自己最速の記録だった。
「ほんとに、更新してる」
「ね、でしょ!? すっごいよこれ!」
「やっぱ有羽は風の申し子だわ。次の試合も同じの出してね……っと」
 芹菜が茶化して言ったのと同時に、背後から顧問の呼ぶ声が聞こえた。
「はい、終了。片付けて」
 口々にはぁいという気の抜けた返事を返し、私たちは帰り支度に取り掛かった。スタートラインに立った時の緊張感はきれいさっぱり消え失せて、皆陸上選手から女子高生の顔に戻っている。この時の皆のギャップが、私は結構好きだ。勿論、自分自身もそうなっているんだろうけど。
 スパイクの跡だらけになったグラウンドにトンボをかけて、大事な商売道具であるスニーカーの手入れをする。砂埃を巻き上げ、グラウンド周りの木々を揺らせる風からは、もうすでに夏の気配が抜け落ちていた。
「有羽ー! 帰るよ」
「はーい」
 背後で呼びかける芹菜に返事をしながら、私はまたグラウンドを蹴って走り出す。空が近い。手を伸ばしたら触れそうだな、と不意に思い、子供じみた連想に苦笑する。秋は一番好きな季節だ。徐々に涼しくなっていく温度や澄んでいく空気は、これ以上なく動きやすい。まだ走り足りない気持ちを弄びつつ着替え終え、クラブ棟を出る。中庭に植えられたささやかなコスモスの群が咲き、ハナミズキの木には可愛らしい赤い実も付き始めていた。衣替えを来週に控えた制服の赤いチェックのスカートを揺らしながら、本校舎に向かう渡り廊下を仲の良い四人で連れだって歩く。
「でさぁ、知ってる? 数学の伊東、次の小テスト落とした奴は補習だとか言ってたらしいよ、三組で」
「えええ! うっそぉ。芹菜、それうちでは明日だよ!? あたし勉強してないよ〜」
「今からすればいいじゃない」
「そうだけどぉ。……有羽、教えてくれる?」
「私? う〜〜ん、どうだろ。私も数学の今のとこ、得意じゃないし」
「璃子、あんた今更教わっても対処しきれないでしょ。っていうかテストよりもお腹空いた。帰りにドーナツ食べてこ」
「麻美、あんた食べる事ばっかりだね」
「良いんだよ、さっき一日分のカロリー消費したつもりだから」
 授業のこと、お洒落のこと、昨日のテレビドラマのこと。クラスメイトのこと。皆口々に喋りながら、走り回って体に溜まった熱を飛行機のエンジンみたいに外側に放出するのだ。上がり過ぎてじんと痺れていた肺が元に戻っていく感覚。階段を上りきって西日の射す廊下を歩いているうちに、疲労感は制汗剤の匂いと共に空中に溶けていった。
「でも有羽、天束(あまつか)君に数学教わってるんじゃないの」
 唐突に話を振られ、私は正直ぎくりとなった。璃子も麻美も芹菜も、隙あらばこの話題で私をつついて来ようとする。
「そんなにまめに教わってないよ。時間も案外合わないし」
「そうなの? 家隣だし、すぐに行き来できるでしょ」
「最近はしてない」
 私は務めて素っ気なく答えた。こういう系統の話は苦手だ。他の子のならまぁまぁ聞くけど、自分から進んで相談に乗ろうとは思えないし、私自身のことを探られるのはもっと困る。できればそっとしといてほしいけど、女子が四人も集まったらこっちの話に行かないでいられるはずがない。
「え〜? 何で」
「もっとガンガンいけよ! あんたもつまんない女よの〜」
「べ、別につまんなくて良いでしょ!」
「あっ!」
 好奇心旺盛な視線で攻めてくる麻美と芹菜をよそに、璃子が何かに気付いて声を上げた。
「ちょっとちょっと有羽。噂をすればほら、」
「ん?」
「……ってあれ、声掛けちゃやばいやつじゃん」
 人のいない教室に、二人分の影がある。一人は女子で、きちんと折り目のついたプリーツスカートからほっそりとした脚が覗いている。麻美たちは三人揃って壁際に身を寄せ、ゴシップハンターよろしく中の二人をじろじろと観察しだした。
「うわ、二組の安斎さんだ」
「有名な子?」
「まじ、有羽あんた知らないの? 学年で一番可愛いって子だよ」
 私たちのように、毎朝毎晩走っているような集団では絶対にお目にかかれないような脚。ふんわりとした長い髪も、男子みたいなショートカットの私とは正反対だ。同じ女子なのに、これだけで違う生き物に見えるのだから人間って不思議だと思う。そして、そんな彼女と向かい合っているのは――
「ひゃぁぁ! 安斎さん、天束くんのこと好きだったんだ!!」
「ちょっ璃子、声でかいよ」
「まぁそりゃ、釣り合うようなの天束しかいないからね」
 見慣れた後姿がそこにあった。男子にしては華奢だけど、背丈は結構高い。その上いつも背筋をぴんと伸ばしているから、余計長身に見える。開け放たれた窓から這入ってきた風が、彼の黒髪をさらさらと揺らした。
「――……他に、付き合ってる子とか」
 その風に乗って、聞いたことの無い女の子の声――安斎さんの声が聞こえてきた。見た目通りの可愛い声。それに反応した彼の肩が動き、そのぎこちない空気の流れをゆっくりと変える。
「いないよ。でも――」
 昼間聞いた時と何も変わらない、通りの良い声がした。
 嫌だ。なんか、聞きたくない。
「おおっと。どうすんの? 有羽」
「別に、どうもしないけど」
 目配せしてきた芹菜の視線をかいくぐり、私は荷物が置いてあるはずの教室の前を横切っていく。
「どこ行くの?」
「トイレ!」
 予想外な大声で返してしまった。教室の中にいた二人も、ぎょっとしてこちらを見る。
 窓枠越しに目が合った。今にも透けそうなほど白い肌に、お人形のように整った顔のパーツ。その男のものに思えないふっくらした口元が、私の名前の形に動く。
「――有羽?」
「深、」
「有羽だ。一緒に帰ろう」